AI翻訳と知的翻訳について

 世界の公用語として英語が君臨してから久しく、重要な情報は全て英語に集中していると言っても差し支えない。

 先日辛い思いをした。
 大学院入試に際し研究計画書を書いた時、自分のやりたい研究とその方法について、すでに全く同じ事をやっている先人を発見したのだ。出願書類はすでに郵送済みであった。

 このようなことはなんら珍しいことでもあるまい。しかし私にとって大事なのは、先行研究が英語の本であったために、私が今までそれに気づかなかったという紛れもない事実一つなのである。
 ひとえに私の英語避けゆえである。

 早速当書籍を入手したが、試験まで時間は無いのに、英語だから速さも理解の質も日本語での読解に劣る。最初こそ辞書を片手にかじりついていたが、その時言っていることがわかっても、内容の維持力に欠ける。読んでいるそばから忘れていくのである。
 耐えられなくなって、翻訳アプリに頼った。紙でコピーしたものを、再びカメラに撮ってOCR(文字認識)にかける。しかし、読解のため行間にちまちまと書き込んだ手書き文字(ボールペン!)が邪魔をして、できあがったのは始末に負えない文字列。
 結局、Kindle版が出ていることを知り、すぐさま購入。コピー&ペーストで翻訳アプリにかけて読んだ。本当に助かった。

 昨今のAI翻訳技術には驚倒すべき性能がある。直訳ではなく、なるべく自然な言い回しになるように配慮されたソフトも多い。
 私が所属している大学では、なぜか、大学のWi-Fiからは、かの高性能翻訳サイト「Deepl」に接続できない。グローバルスタディを推進している大学の意地であろうか。

 このようなソフトの開発と普及により、翻訳家の仕事がなくなるかと言われれば、そうではない。AI翻訳は依然「知的翻訳」には滅法弱いのである。

 例えば私がdeeplに食わせた英語の学術論文は、奇怪な用語が所々浮いている状態で吐き出されてきた。「両性具有」と「両性具有性」の区別、神話上の固有名詞、界隈ではおなじみのジャーゴンがDeeplにはわからないのである。
 加えて、注釈用の数字もまとめてコピーしていたため、数字までぽろぽろ居心地悪そうにしていた。

 一方、小説や詩の文学作品も「知的翻訳」に含まれるであろう。

 柳瀬尚紀さんという方を私は最近知った。譲り受けた本に彼のエッセイ『辞書はジョイスフル』(新潮文庫)があったからだ。
 彼は初めて、“ジョイス語”なるものを完訳させた偉大な人物である。
 ジョイス語如何というと、そういう言語があるのではなく、アイルランド出身の作家ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の中で様々な言語を駆使して繰り広げられる大言語遊戯のことだそうだ。
 一応、文字はアルファベットで書かれているが、ありとあらゆる言語を織り交ぜ、発音とも絡めて、二重三重の意味を一語に滲ませる(柳瀬さんは「ひびく」と表現している。「この語には、音的に〇〇もひびいている」という具合)。造語の連発であり、海外では『フィネガンス・ウェイク』用の辞典・辞書まであるくらいだ。

 英語での言葉遊びを日本語に翻訳することがいかに大変か。当然翻訳アプリにはできない。  柳瀬さんは日本語の持つ強み、漢字(常用外含む)とそれへのルビを駆使して、この奇書を完訳した。そうなれば訳語ももはや日本語とは言えない。ヤナセ語である。
 このエッセイには翻訳に際して、英和辞典だけでなく、漢和辞典やら逆引き辞典やらありとあらゆる辞書を引いてきた経験が、訳書と同じようにだじゃれを盛り込んで楽しく書かれている。
 ちなみに私の英語できない度と言ったら、『辞書はジョイスフル』……ふうん、ジョイスフルって単語があるんだと素直に飲み込むくらいである。

 このエッセイで特に記憶に残った箇所をあげておく。
「注意を払う」という日本語が、英語のpay attentionからの直訳であり、元来日本語には無い言い回しであることだ。注意を「する」ことはあっても「払う」ことはない。
 言葉は生き物だから、使っていく内に「正しい言葉」というものも移ろっていくものである。とはいえ、本来的な日本語の使い方も遺しておく必要もある。

 翻訳は直訳がいいのか問題は案外、私の身近にもある。
 四月からラテン語の授業を取り始めたが、そもそも語族が違うので、直訳していては流れの良い日本語にはならない。
 使っている教科書からカエサルのラテン語の文例を一つ持ってくる。

Germani, clamore audito, se ex castris eiciunt.

この訳を聞かれた際に、こう答える。
「ゲルマン人たちは、叫び声を聞いて、陣地から飛び出す」
 正解である。しかし先生はこう付け足す。
「直訳すると__ゲルマン人たちは、叫び声が聞かれ、自らを陣地から追い出す__になります」
 これでは日本語ではない。しかし、日本語で訳したどの部分がラテン語のどの語に対応しているのかを見るためには直訳を挟むのが必要なのである。

 柳瀬さんは、種々の辞書をエンジョイスしている辞書愛好家で、「凡人には辞書がある」と繰り返している。けれども、やはり翻訳家としては、最終的には「辞書離れをする」そうだ。(第五章「辞書の百貨店」より)小説なら小説、詩なら詩、評論なら評論の言葉に仕立て上げる。さすがである。

 学術論文はどうだろう。
 その分野での古典とされているテキストを授業で扱うとき、担当教諭は「原典でも読みなさい」という。原語のほうが著者の意図が伝わるから。さらには誤訳・迷訳に気づくことにも貢献する。
 原典と和訳を机の上に横並びにしたとき、あまりにも滑らかな和訳だと、返って対応関係を見つけるのが難しいこともある。うーん。
 しかし、対訳本ではない以上、それだけで言葉として成立している必要があるから、やはり翻訳というのは学術書でも滑らかな言葉であるのがいいのだろう。

 最後に、澁澤龍彦はなんと言っているか見ておこうか。
『澁澤龍彦全集 12』に収められた「人形愛序説」に「翻訳について」という項がある。

 澁澤は翻訳が好きだそうだ。彼がサドの小説を翻訳して、有罪判決を得たことは有名である。こういう前科は文学者の誉れではないだろうか。

 日本人による日本語の文章と外国人による外国語の文章の日本語訳は、どちらも同じ日本語の文章である、と彼は述べる。
 ここでカメラのアナロジーが掲げられる。翻訳者はカメラのピントを合わせるように、原語にぴったりと嵌まる日本語を、ぐるぐるフォーカス・ノブを回して探し続けないといけない。こうしてぴたっぴたっと嵌め続けてできた訳文は、一から創作された文と同じレベルだという。
 翻訳は手段で無く、それ自体目的である。

 そして翻訳というとある言語から別の言語へと考えるが、曰く、「私にとって、文章を書く私とは、いつも澁澤龍彦の翻訳をしている人間、無色透明の人間であるにすぎない。文章を書く私には、人格も思想もなく、ただ澁澤龍彦の人格や思想を、できるだけ忠実に翻訳しているだけなのだ」。
 柳瀬さんも、ジョイス語翻訳中は、透明人間に徹し、辞書をぺらぺらノブをくるくるして、言葉を嵌め込んでいたのだろう。AIは、ノブを根気強くいつまでも回し続けることはしない。AIに頼るのは、この間の私のようにちょっとならボケててもいいんで、とにかく早く! という場合が良い。

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