憂鬱帳のすゝめ

まえがき

 人間誰しもどうしようもなく気分が落ち込むことがある。

 憂鬱、怒り、不平、嫉妬ら負の感情が全身を支配し、普通に椅子に座っていることさえままならない。叫びたいのに声が出ないで、喉の辺りの詰まりに喘ぐ、そういう時が誰しもある。

 しかしそこで自死が頭に浮かぶ人間とそうでない人間に分別できる。私はこの両者間に大きな河が流れていると思っている。

 自死は救済の希望を思い悩める者の前にほのめかすが、そうは言っても、既知の範囲であるこの世界からの離脱、未知への飛び込みであるわけだから依然として恐怖の対象である。この恐怖が現世に生き続ける恐怖と比較し小さくなった時、人は自死を選ぶ。もちろん衝動的に死に行ってしまう人だって多々いるけれど。

 自死を考える側の人間は、そうでない側の人間に対して、「ああ、この人はそっち側の人間か」などと彼岸を羨むことがあるが、しかし実際にはそれと同時に、「鈍感な人間で、さぞ生きやすいでしょうね」という嫌みの混じったある種の忌避感も抱く。そりゃあ生きやすいにこしたことはないが、鈍感な奴らにはなりたくないのである。

憂鬱帳とは?

 ここで私が諸君に推薦するのは「憂鬱帳」である。

 憂鬱帳如何。どうしようもなく憂鬱になった際に開き、あらゆる負の激情を書き留めるノートである。そのままだ。

 そう聞くとこう思うに違いない、「ああわかりました。それってあれですよね。頭の中がぐちゃぐちゃしている時は、紙に思いを書き出せばスッキリするってやつですよね。客観的に物事を見られるようになる、視野が広がるって、まあそういうやつですよね」。

 そのような面もないわけではないが、それは副次的である。憂鬱帳の最大の目的は、書かれたものではなく、書く自分である。

憂鬱帳のねらい

 鬱状態の人間は皆、一時的に詩人だといえる。

 恋煩いや厭世の感が人間に詩を書かせるのだ。
 素人玄人問わず、この世に生み出される文学は全て、負の感情を母としているように思える。不足感が創作活動を促進するのは当然のことだ。

 検索すれば出てくるクサい恋愛ポエムも、片思いの切なさを詠う。あるいは恋が成就し、その楽しさを装った歌だとしても、裏にはやがて来る関係の終わりへの予感を孕んでいる。ずっと一緒だょ、と言っていたとしてもだ。

 鬱になったら、詩創作が捗る。

 現代人はもっと詩人状態を活かすべきだと思う。つまり、もっと詩人であれと言っているのだ。できあがった詩文の良し悪しはこの際どうでもよい。そこに意味や価値はない。

 個人的な感覚を述べると、文を作るという行為は、さらに言えば、文や言葉をインクペンで罫線に沿ってしたためるという行為は、私の感情、知覚、意識を行為自体にのみ留めさせる。

 文字として生産した感情と面と向かうので鬱は加速するが、同時に解放される。自己が自己に沈んでいく過程で、先ほどまで恐ろしく厄介だった激情の、それが持つ美しさに相対する。

 そこでさらに、そんな自分の美しさも発見する。「繊細な詩人である私」に酔いしれることができる。

憂鬱帳をしたためる自分を「客」観視

 書くことで客観的な視点を得られるという話をしたが、憂鬱帳が提供するのは、まさに、「客」観視である。

 考えてもみて欲しい……
 上手くいかなくて空回りし、あらゆる醜悪な振る舞いをしてしまい孤立。暗い部屋で息も絶え絶えにノートにペン先を滑らせる様、そして涙で紙が波打ち、インクが滲む様__なんとも哀れで、美しいじゃないか! そう、悲劇の登場人物さながらだ。

 憂鬱帳を書く行為は、自分を詩人にし、書いている小一時間を、哀れな詩人が主人公の美しい演劇のワンシーンにできるのである!

 反対に順風満帆の日々は薄っぺらい事実の列挙に過ぎず、誰もわざわざ観劇に来ない。

憂鬱帳の取り組み方の一提案

 お分かりの通り、行為そのものの美しさの話なので、少しの工夫でさらに画になる状況を支度できる。

 基本の道具は単純明快。罫線、もしくはマス目のあるノートとインクペン。

 ノートは美しい装丁のものを自分の好みに合わせてこしらえよう。
 私は古典的な美を感じさせるツバメノートのB5版を使っている。たまに文豪気取りで400字詰めの原稿用紙だ。縦書き横書き問わない。

 そしてそれを丸々一冊「憂鬱帳」と題し、専用とする。

 間違っても予定や〇〇リストでいっぱいの手帳の一片でやろうとしないこと。憂鬱帳は「言葉」と「心病める私」しか入れない特殊な場である。未来に対し意欲的な者は入室を許可されない。同様の理由で、特売チラシの裏、キャラクターもののノート、メモ帳でやることをおすすめしない。

 ペンについては、インクタイプを選ぼう。つまり消しゴムで消して直せるものではないということだ。詩作とはいえ、詩自体のクォリティを高めるための試行錯誤は無用だからである。

 たとえば、ミュージカルのワンシーン、愛する二人の別離の場面。恋人たちは想い昂ぶって歌い出す。そこで、「貴女は僕にとって、暗い闇に差し込む、一筋の月光__ん、星の瞬きの方がいいかな? でもリズムはこっちの方が……」なんてやっていたら興醒めだ。

 どうしても気になったり、誤字・脱字の場合は二重線で消す。

 インクの色は黒、紺、青、濃緑など、重たく冷たい色が良い。悲劇の涙の色を想起しつつ。あるいは赤黒い血の色とかでもいいかもしれない。

 私はブルーブラックのインクを吸入させたクラシカルな万年筆を使っている。趣味だ。持っていないがガラスペンなども美しい。インク瓶を倒してぶちまけて全てダメにしてしまっても良い。

 用意しなくてはならないのは、何も物質的なモノだけではない。ゆったりとできる時間と、気兼ねなく沈み込める静かで薄暗くて冷たい一人だけの空間だ。むしろこちらの方が重要である。

 化粧を落としてからにしようとか、机の上を片してからにしようとか、そういう前向きな作業を憂鬱帳よりも優先しないこと。憂鬱帳は、下へ下へ沈むのだから、ベクトルが真反対である。

 書くスペースがないのなら、最低限だけを床に払い落とす。雑然とした部屋での詩作は、それはそれで美が際立って良い。

むすび

 私はこういうちまちましたことを積み重ね、自分の暮らしの「耽美度」を上げていこうとしている。その努力が、少しでも伝わったかもしれない。滑稽だとか、痛いだとか思われたかもしれない。

 ちなみにここで一つのパラドックスが見つかる。憂鬱帳を書くこと自体も、ある種の前向きなことなのではないか。

 憂鬱を美へ昇華することは確かに沈降であり上昇だ。また、憂鬱・激情そのものをコンテンツとするのは、真の意味で情に身を任せていないので、美しさに劣るのではないか。

 うむ、どちらも痛い指摘ではあるが、それでも私はやはり憂鬱帳を推薦する。やはりこれはあくまで、苦痛の最中にいる人間に送る処世術の一つだからだ。

 酷く落ち込んでいるときは、憂鬱帳を書く気を起こすことさえできない。辛いときに向精神薬の頓服を服用するのが難しいのと同じだ。(喚いている最中、薬を飲むための落ち着きなど無い)なるべく手に取りやすい位置に常に置いておくことしか解決策は挙げられない。

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