『イーリアス』第三巻をひとつひとつ読む:前編

『イーリアス』

 『イーリアス』は第三巻からいよいよ実際の戦闘の場面になり、アクションシーンも増えてきます。

 前回までのあらすじ
 ゼウスがアガメムノーンに見せた逆夢により、ギリシア軍はトロイアへ一斉攻撃を仕掛けようと平野を進んでいく。虹の神イリスから報せを受け取ったトロイア側も、戦の支度をはじめ迎え撃とうとしていた。

パリスとメネラーオスの対峙

両軍が相対する

 トロイア軍は、小アジアの大陸側の方々から来ている様々な部族たちが、各々で整列し喚声を上げて平野を進んでいきます。
 一方でギリシア軍はひっそりと物を言わずに進んでいきました。皆黙りながらも心の中では互いに助け合おうという意気込みが強くあったと書いてあります。

 第三巻の冒頭で語られる両軍の違いは興味深いですね。

 ギリシア側も方々から人が集まっているとはいえ、団結感があるのに対し、トロイア側はトロイア人たちに加えて援軍に来た各国の軍は、なんだかバラバラでまとまりがないかのような印象さえ受けます。

 ギリシア側はいったんアウリスの浜辺に集い、そこからは皆揃って遠征に行っています。対しトロイア側はトロイアに現地集合。もしかしたらその違いがあるのかもしれません。

 さて両軍が平野を進んでいく様子は凄まじく、砂埃が舞いまるで靄がかかったような視界だったようです。

パリス登場、メネラーオスとの因縁

 両軍が接近し、向き合ったところで、トロイア側の先頭からトロイアの王子パリス(別名:アレクサンドロス)が出てきて、ギリシア側の大将たちに自らと戦うように声を上げます。

 パリスはトロイア側の王プリアモスの息子であり、ヘクトールの弟、そして何よりヘレネーをさらった男です。
 パリスはヒョウの毛皮の楯を持ち、立派な弓、剣、二本の槍を構えており、王族にふさわしい姿で戦場にやってきたのです。

 この機会に黙っていないのはギリシア側のメネラーオスです。自分の妻であったヘレネーをさらった男を今すぐにでも倒してしまいたいと、パリスを見たとたん、戦おうと戦車から降ります。

ビビるパリスをヘクトールは叱る

 勇ましく声を上げたパリスですが、メネラーオスのあまりの意気込みに圧倒されて、死にたくないとトロイア側の戦士たちの中へと逃げ帰ってしまいます


 脚が震えて、頬が青ざめたとされています。少し前の文章でパリスを見つけたメネラーオスがまるで山羊を見つけた飢えた獅子のようと描写されているので、怖くなるのもわからなくはないです。

 しかしやはりパリスの情けない行動に、ヘクトールは彼を叱ります

ヘクトール
・外見は誰にも劣らないが、女狂いのゴマすり男め。
・生まれてこないで、結婚もしないで死んだ方がよかった。
・立派に戦場に現れたのに肝も座ってなく、武勇もないなんてアカイア勢のとんだ笑いものだ。
・そんな情けない奴なのに、わざわざ海原を船で渡ってすでに夫のいる美女を連れてきた。そいつは国や市民には災いの種、お前にとっては恥さらしのもとである。
メネラーオスをお前が待ち構えて戦ったらどうだ。自分が妻を奪った男がどんな人かわかるだろう。
・その際には竪琴もアプロディーテからの贈り物も役には立つまい。お前の美しい見た目も砂埃にまみれてしまえば何でもないし。

 あまりにも辛辣だったので詳しく載せてしまいましたが、ここにはところどころパリスがどういう過去を持っているのかがわかる描写があります。

 まず生まれてこないで、死んだ方が良かった。という点ですが、実はパリスの生誕はトロイアの国王夫妻にとって喜ばしいものではなかったのです。

 出産直前にプリアモスの妻ヘカベーは凶夢を見て、国王夫妻が占い師に占わせたところ、お腹の子がトロイア滅亡をもたらす予兆であると告げられます。そしてお腹の子を殺してしまうことになったのです。
 生まれてすぐ捨てられたパリスはなんだかんだ生き延びますが、もともとは呪われた子でした。

 さて時は経ち、パリスが王族に復帰した後、有名な「パリスの美人判定」が起こります。ヘーラーアテナアプロディーテがやってきて一番美しい女神はどなたとパリスに判定を求めるのです。

 パリスは恐れ多くて選べませんでしたが、選ばなかったら選ばなかったでゼウスの罰を被ると言われてしまいます。

 三人の女神は自分を選んでくれた際の褒美を提示しパリスを買収します。
ヘーラー:世界中の支配権と莫大な富
アテナ:あらゆる戦での絶対的な勝利
アプロディーテ:人間界で一番美しい娘ヘレネーとの結婚

 報酬が提示されるともはや純粋な美の競い合いではなくなった気もしますが、そもそもこれもゼウスが仕掛けたことですので、全てはトロイア戦争と英雄の時代の終焉へと運命づけられているので仕方ないですね。

 そうしてアプロディーテの要求を飲んだパリスは、ヘレネーをギリシアまでさらいに行くために一生懸命に船を作って大海原を従者を連れて渡っていったのでした。

 さて、このような兄の非難にパリスは次のように返します。

パリス
・あなたの言ってることはもっともです。
・でも容赦がないし遠慮もない。
・どうかアプロディーテの贈り物(=ヘレネー)のことはあれこれ言ってくれるな。神様からの贈り物はなおざりにできない。

  パリスがヘレネーをさらってしまわなければ、トロイア戦争など起きずに済んだのですが、実際には上述のセリフにもある通り、神様があげると言ってくれた贈り物を断る権利は人間にはありません

 神からの好意を断ったために罰を受けた人間は神話上に星の数ほどいます。アプロディーテが「ヘレネーと結婚させてあげるよ」と言ってくれたからには、もうヘレネーをさらい結婚しなければならないのです。
 こう見ると神様の好意も人間にとっては義務を生み出してしまうようですね……

(まあ実際にはパリスもヘレネーとの結婚に目がくらんでアプロディーテを選んだわけですが)

パリス、一騎打ちの誓約を交わす

 兄であるヘクトールから痛い非難を受けたパリス。その言葉を聞いて、戦いに怯えていた心を奮い立たせ、以下のことを言い放ちます。

パリス
・両軍を座らせて、自分とメネラーオスが真ん中に対峙し、ヘレネーと財宝をかけて一騎打ちさせてくれ。
・勝った方がヘレネーと財宝を手に家に帰る。他の戦士たちは仲直りし各々故郷に帰る(戦争をやめる)のはどうか。

 勇気を出したパリスにヘクトールは大喜び。戦いのため立っていた自軍の戦士たちを座らせます。

 するとそれを見てギリシア軍はすぐさま攻撃をしようとしますが、今度はギリシア軍総大将アガメムノーンがギリシア軍戦士たちを同じように鎮め、ヘクトールの言葉を聞くよう促します。

ヘクトール
・パリスとメネラーオスが今から一騎打ちをする。
彼らの果し合いをもって我々は戦争をやめるという誓いを交わそうじゃないか。

 ヘクトールの言葉に皆は黙りこくります。そこでメネラーオスが続けます。

メネラーオス
・(もう九年も戦っていて)とっくに我々は引き分けていてもおかしくない頃合いなのに、戦いで我々はたんへん苦しい思いをしている。
・だからもう自分たちのどちらか死ぬ運命の者が死ねばそれでいい。皆は戦争をやめて帰ってくれ。
・では大地と太陽とゼウスに捧げる贄を用意しよう。
・トロイア王プリアモスも連れてきて彼の言葉でも誓わせるように。
・(誓約にあたって)年寄りを加えた方が若者だけでやるより確実でよいだろうから。

 両軍の当事者二人がこの取り決めに賛同したため、一般兵士たちも戦争をやめられることを喜びます。皆、戦車を下げてまとっていた甲冑を脱ぎ寄せて置いておきました。

 そしてトロイア側が大地と太陽に捧げるそれぞれ白と黒の子羊を用意し、ギリシア側がゼウスへの贄を用意することになっていたので、それぞれ伝令使を出します。

(大地と太陽に捧げる羊の色が指定されていて、さらに両者で異なるのは何か意味があるのでしょうか?)

ヘレネー登場、城門からギリシア軍を検分

イリスがヘレネーを呼び出す

 虹の神イリスはパリスの姉妹であるラーオディケーの姿に化けてヘレネーのもとへ向かいました。
 ヘレネーは広間で機織りをしているところでした。機織りの絵柄は、ちょうどギリシア軍とトロイア軍の戦いの様子だったそうです。

 イリスは先ほどパリスとメネラーオスおよび両軍の間で交わされた誓約のことをヘレネーに伝えます。ヘレネーは話を聞いて、以前の夫メネラーオスや懐かしい都、両親たちのことを思い起こし涙をこぼしました。

 ヘレネーは居ても立っても居られなくなり、戦場の様子が見えるスカイア門へ召使二人を連れて向かいました。

プリアモスとヘレネーの戦場検分

 スカイアの城門にはすでに国王プリアモスをはじめ、トロイアの長老たちが腰を下ろしていました。
 彼らは老年のため戦争には参加できなかったのですが、戦場の様子は見守っていました。

 ヘレネーが自分たちのいる城門へ上ってきているのが見えて、長老たちは彼女の女神に等しい美しさに感嘆しつつも、ゆえに彼女をギリシアに返す方が良いと互いに言い合いました。

 王プリアモスだけはヘレネーに声をかけてそばに呼び寄せます。

 プリアモスはヘレネーを責めません。彼女には何の責任もなく、責任があるとすれば神々だと述べます。
 ヘレネーの方は自分が戦争を引き起こしたことを嘆き、自分が死んでいたらよかったのにとまで零し、身をやつれさせていました。

 そうしてのち、プリアモスはヘレネーと二人で戦場を見下ろし、目についたギリシア軍の立派な戦士についてヘレネーに語らせるのです。

「あそこにいる今まで見た事もないような威厳を備えた立派な戦士は誰だ?」
「彼はアガメムノーン王です。国王であり剛勇の槍の使い手であり、私の義理の兄でした」
とアガメムノーンについて語ったり、


「ではあのアガメムノーンよりも背丈は小さいが、肩幅や胸元は広く、戦士の列の間を往来している男は誰だ?」
「知恵に豊かなオデュッセウスです。イタカという地の育ちで知謀に優れています」
とオデュッセウスを紹介したりします。

 またオデュッセウスについて話している際には、横からトロイア側の長老の一人であるアンテノールがオデュッセウスについての思い出話を挟みます。

「オデュッセウスは以前メネラーオスと共にトロイアに来たことがある。そして私は自分の館に彼らを泊めました。立ってるときはメネラーオスの方が肩が広く目立っていたが、座るとオデュッセウスの方が立派に見えたのです。
 また何かを喋る時には、メネラーオスは、言葉少なでまごつくことなくはっきりと口早に喋った。オデュッセウスは、立ち上がったころにはまだどこか知恵のないような雰囲気さえあったが、いざ話し出すともう誰も人間の身では彼に敵う人はいないほど立派だった」

 また今度は大アイアースを見つけて、
「あそこにいる背丈、肩幅の大きさが抜群な戦士は誰だ?」
「彼は巨人と呼ばれるアイアースで、アカイア軍の守りの垣と呼ばれています。他にはイードメネウスがクレタ島の人々を引き連れています」

 大アイアースはギリシア軍の中で身体が一番大きいのではないでしょうかね。とにかく、デカければ強い時代です。アイアースはアキレウスの従兄弟です。

 さてギリシア軍をこうして見渡しているとヘレネーはギリシア軍の中によく知った二人がいない事に気付きます。

 それは同じ母から生まれたカストルポリュデウケース、つまりヘレネーの兄弟です。
(ちなみにアガメムノーンの妻であるクリュタイムネストラも彼女らの兄弟であり、この四人は人間界ではゼウスの子「ディオスクロイ」と呼ばれていました)
*異説によるとヘレネーはゼウスと女神ネメシスとの子であり、それを預けたのが後出のレーダとも。

 ヘレネーは妹の自分が戦争の原因であるため二人は参加しなかったのかと思いを巡らせますが、実際にはカストルとポリュデウケースはすでに死んでいました

【補足】カストルとポリュデウケース

 カストルとポリュデウケースの死因はここでは語られていませんが、彼らの死はむしろ『イーリアス』のどの話よりも有名なエピソードだと思われます。

 なぜなら彼らは星座のふたご座の由来であるからです。


 ゼウスとスパルタの王妃レーダの間に生まれた子供たちは、二つの卵からヘレネーとクリュタイムネストラ、カストルとポリュデウケースがそれぞれ双子で生まれてきました。
(ゼウスが既婚者であったレーダと交わるために白鳥に化けたので卵から生まれてきています)

 カストルとポリュデウケースはどちらも半神半人であるはずだったのですが、カストルの方が人間である母の血を濃く受け継ぎ、反対にポリュデウケースの方は神である父の血を濃く受け継いでいました。そのため、死すべき人間と不死である神という運命(モイラ)の区別が双子の間に生まれてしまっていたのです。
*異説ではレーダと夫の間の子がカストル、レーダとゼウスの間の子がポリュデウケースとも。

 さて、二人の従兄弟イーダスとリュンケウスも双子だったのですが、ある時、両双子の間で諍いが起きます。そしてカストルはイーダスに殺されてしまいます
 後追いしようとしても不死であるためできないことを悟ったポリュデウケースはゼウスにお願いして二人一緒に星にしてもらうよう祈り、ゼウスもこれを聞き入れました。

 (ヘレネーが二人の死を知らないということは、ふたご座の事件はヘレネーがトロイアに誘拐された後、起きたのでしょうか? その辺も調べてみたいですね)

プリアモスのもとへ伝令使がやってくる

 検分を行っている中、城門の方に伝令使たちがやってきました。手には贄など儀式に使うものが見えました。

 伝令使たちは事の次第をプリアモスに伝えます。自分の息子パリスが命を懸けるということを聞いたプリアモスは身の毛をよだたせ、急いで戦場に向かう用意を始めました。

 プリアモスは馬車を用意し乗りこむと、しっかり手綱を握ります。その横には長老のアンテノールも馬車を引いてお供してくれました。

 そうして二人はパリスたちがいる戦場へ急いだのです。

前半まとめ:パリスとメネラーオスの誓い

 第三巻前半は、ヘレネーの新旧の夫たちが相まみえるシーンでした。

 まさに因縁の相手同士であり、十年にもなるトロイア戦争の発端が出てくるので非常に緊張した情景です。また当のヘレネーもいよいよ登場してきました。

・ヘレネーと財宝をかけ、パリスとメネラーオスが一騎打ちをすることになった。
・それでもって戦争は終結するという約束を交わした。

 第三巻後半は二人の一騎打ちのシーンです。
 果たして戦争は終わるのでしょうか……!?(『イーリアス』は全部で二十四巻あります。終わるわけがないですね)

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

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