ギリシア神話を伝えた有名な詩人ホメーロスの代表作『イーリアス』を詳細に読んでいきます。一巻を前編と後編に分けてじっくりと文章を味わいます。ちなみに筆者は初めて『イーリアス』を読みます。
はじめに:『イーリアス』のおおざっぱな説明
読んでいく前に『イーリアス』がどのようなものか、おおざっぱに説明しておきましょう。
詩人ホメーロスがまとめた叙事詩
『イーリアス』を書いたのは古代ギリシアのホメーロスという詩人です。
紀元前8世紀ごろに活躍しました。
もともとギリシア神話は古代ギリシア近辺で、口頭で伝えられてきた伝承群のことを指します。そのため一言一句決まった聖典はなく、語る詩人や地域によって内容に揺らぎがありました。
そのように内容がバラバラだった伝承群はホメーロスの名でまとめあげられました。
(その名前で一つのテキストにまとめられたというだけで実際にホメーロスという人物はいなかったとする説も有力です)
ホメーロスなどの吟遊詩人たちは音楽に乗せて物語を語ります。物語というとフィクションのように思えますが、当時の人々にとって、それは過去に実際にあった出来事で、真実の歴史そのものでした。
トロイア戦争を描く
『イーリアス』は全体としてトロイア戦争を描いています。
トロイア戦争はギリシアの古代都市ミュケーナイのあたりに住んでいたアカイア人という民族と、小アジアのトロイアという都市に住んでいたトロイア人たちの間で起こった戦争です。
戦争はギリシア側のアカイア人がトロイアに船で遠征する形で進行しました。戦争は10年続いたと言われています。
この戦争は神々の王であるゼウスが引き起こした戦争でした。地上における半神半人の英雄たちの活躍が目まぐるしい中、その重みに耐えかねた大地の女神ガイアが孫であるゼウスに「なんとかしてほしい」と頼んだのです。
トロイア戦争の実質の原因は絶世の美女セレネです。アカイア側の国の王女であった彼女をトロイア側の王子パリスがさらったことで戦争は勃発します。
しかし、セレネはゼウスが先ほどの目的をもって自らネメシス(他の言い伝えではレダ)という女神との間に生まれさせた子でした。
セレネは英雄たちの時代を終わらせるために地上に送り込まれた存在でした。どこか、パンドラに近しいものを感じますね。
主人公は英雄アキレウス
物語の主人公は英雄アキレウスです。彼は海の女神テティスを母に持つ、半神半人の英雄でした。
この母のテティスはゼウスや海の大神ポセイドンからも言い寄られるほどモテる美女でしたが、とある運命を背負っていました。
その運命とは「テティスが生んだ子は必ず父親よりも強くなる」というものです。このことを知ったゼウスは彼女に言い寄るのをやめて、さらにはポセイドンにもやめておくよう伝えました。
(ギリシア神話の歴代主神はどれも自らの息子に倒され、権力を奪われています。ウラノスはクロノスに、クロノスはゼウスによって。このことからも力を持った息子を恐れる気持ちはわかりますね)
代わりにテティスと交わったのはプティーアという国の王であった英雄ペレウスです。そしてアキレウスが生まれます。
アキレウスは英雄らしく戦いが好きで、勇ましく武勇においては彼の右に出る者はいません。
また非常に足が速く、作中でも「足の速いアキレウス」と表現されています。
『イーリアス』は彼の勇ましい姿とトロイア戦争の終結までを描いた作品なのです。
冒頭:アキレウス激怒、発端はアガメムノーンの愚行
アポローンの怒り、疫病発生
物語はアキレウスが、同じくアカイア側の戦士たちの王アガメムノーンに対して怒りを爆発させているところから始まります。二人は同じ軍でありながらも不仲になり喧嘩をしています。
喧嘩とはいっても個人的なことではありません。アポローン神が怒り、アカイア側に疫病をもたらしたのです。
そのためアカイア側の戦士たちは次々と死んでいきました。屍は野犬だの猛禽類の餌食にされたと描写されています。遠征先であったし、きちんとした火葬も追いつかないほどたくさんの戦士が死んでいったと読み取れます。
神官クリューセースへの侮辱
事の発端はアガメムノーンがトロイア側の神官へ行った侮辱行為でした。アキレウスはそのことに怒っているのです。
トロイアの神官クリューセースはアポローンに仕える神官です。
ある時、彼がアカイア勢のいる陣地へやってきたのです。
戦争のさなか、アカイア人の戦士たちが戦利品としてトロイアから女子供を奪ってくるのですが、その中に、彼の娘であるクリューセーイスがいました。
彼女はアガメムノーンへと分配されて彼のところで捕らえられており、それを返してほしいという要求でした。
(父と娘の名前がよく似ていますが、男性形と女性系で異なっています。和夫と和子みたいなものです。ちなみに彼らの住む町はクリューセーという名前です。和田町みたいな感じでしょうかね)
神官クリューセースは身代品も持ってきていましたが、他のアカイア勢の意見を無視してアガメムノーンはこれを退けます。クリューセーイスが相当のお気に入りだったのです。(のちに正妻よりも好きだと公言する場面もあります)
アガメムノーンは彼を強い言葉で罵り、とにかく娘は返さないと言い切ります。「二度と会わないように、そうなればお前の命はない。早く帰れ」といった旨を述べ、クリューセースは怖くなって逃げていきます。
逃げたのち、人気のないところへついたクリューセースは、仕える神であるアポローンへお祈りします。アポローンは自分に仕える神官が侮辱され激怒。こうしてアポローンによって疫病の矢がアカイア勢へ降り注いだのです。
アキレウスVSアガメムノーン 激しい口論へ
会議が開かれる
この疫病は九日間続き、十日目に会議が開かれます。そして冒頭のアキレウスとアガメムノーンの喧嘩の場面へと戻るのです。
開かれた会議にてアキレウスとアガメムノーンが大口論を繰り広げます。
占い師カルカースが言うにはやはり疫病はアガメムノーンの行為に怒るアポローンによるものであるとのこと。疫病を治めるにはクリューセーイスを無償で返し、アポローン神へは100頭の牛を贄としてささげなくてはいけないとわかります。
さてここからアキレウスとアガメムノーンの激しい言い合いが始まります。その様子が非常に面白いのでざっくりまとめつつも一つずつ載せます。
アガメムノーン
・クリューセーイスはお気に入り、手元に置きたい。正妻よりも好き。
・でもこれ以上戦士が死ぬのは嫌だから返してやる。
・それなら他の褒美をもらいたい。そうじゃないと不公平だ。
アキレウス
・あなたは物欲が深いな。
・もうみんなで財は分けたんだし、残っていない。一回分配したのをまたやり直すのもどうかと思う。
・ともかくまずクリューセーイスを返せ。
アガメムノーン
・自分は褒美をもらっておいて私にはそのままでいろというのか。
・代わりの褒美をくれないなら自ら他の者から取り立ててやるぞ。
・まあそれは後で考えるとして、まずはクリューセーイスを返すために船を出し、アポローンに捧ぐ儀式を行おう。
アキレウス
・厚顔無恥。ずる賢く、儲けばかり狙うやつめ。
・我々はトロイア側に恨みがあって戦っているのではなく、国王であるあなたと、あなたの弟(メネラーオス。セレネの夫)のために戦っているのだ。
・犬の顔をしているあなたのために。
・なのにあなたは我々を気にもかけないで、他者から褒美を奪おうとしてる。
・激しい戦は大体私がやっているのに、貰っている財はあなたのほうが多い。私はちょっとの財を疲れながら抱えて帰っていくのだ。
・もう今度こそ故郷プティーアに帰ってやる!
(犬は当時恥知らずであることの代名詞でした。人類最初の女であるパンドラも、ヘルメス神から犬のような恥知らずな心を貰っています)
アガメムノーン
・勝手に帰れ。
・ゼウスの加護を受けた国々の領主の中で最も憎たらしい男だ。
・さっさと帰って、部下のミュルミドーンたちでも治めてたらいいさ。
・ただ、お前が褒美に貰った乙女プリセイスを代わりに貰ってやる!
(ミュルミドーンはアキレウスの祖父と同じ島で暮らしていた蟻から人間になった種族です。アキレウスの父と一緒にプティ―アに来たとみられています。アキレウスは彼らを率いて戦争に参加していました)
アキレウスはこのことに思わずプッツンしてしまいそうになり、大剣に手を掛けました。
怒りのあまり喉もふさがり、もう切り殺してしまおうかなとさえ思ったのです。
アテナが降りてくる
そこに女神アテナがやってきました。ゼウスの妃である女神ヘーラーの指示でした。アテナはトロイア側の王子パリスといろいろあり、へ―ラ―とともにアカイア側についています。そのためアカイア勢の仲間割れは嫌でした。
アテナはアキレウスの髪を引っ張って振り向かせます。アキレウスはビックリ。アテナの姿はアキレウスにしか見えていませんでした。
アテナはアキレウスの怒りをなだめます。そしてこう提案します。
「剣は抜かないで。やるなら口先で非難しなさい」
「今は怒りを抑えて。あなたが被った仕打ちの償いとして必ずもっとたくさんのお宝がもらえるはずだ」と告げるのです。
口論は続く
アキレウスは女神の言う通りにして剣を抜くのをやめました。アテナは神々の住む場所オリュンポスへ帰っていきます。
アテナが去ってからも両者の緊張状態は続きます。
アキレウス
・あなたは酒浸しで重くなってて、顔は犬、心臓は鹿の男だ。
・兵士たちと一緒に戦場に出ることもしない。命が危ないとヒヨってるからだろう。
・自分は陣地に引っ込んでいて、たてつく人から褒美を奪い取ろうとしている。
・国民を食い物にする領主だ。
(鹿は臆病の代名詞でした。アテナに言われてから罵倒が強くなっている気がしますね)
そしてアキレウスは持っていた杖に誓って、「トロイア側の大戦士ヘクトールの手にかかってたくさんの戦士が死んでいくとき、自分がいなくなったことを後悔するだろう」と言い放ちます。
アガメムノーンも依然として苛立っています。
弁舌家ネストールの仲介も……
そんな中、弁舌家であるネストールが立ち上がります。彼は大変弁舌が上手く、彼の言葉は蜜よりも甘いと評判の人物でした。また彼は大変長寿の老人で、人間の二世代を見送ったほどです。
二人の仲間割れの状態を自分の得意な話術で、何とかしようと思ったのでしょう。
ネストール
・二人とも立派な人なのに、仲間割れなど大変嘆かわしい。
・(昔ばなしを交えつつ)老人である私の言うことをぜひ聞いてくれ。
・(アガメムノーンへ)アキレウスが貰った乙女プリセイスを奪うのはやめなさい。
・(アキレウスへ)国王というのも神様によって権力を与えられており、偉いのだから、国の王 と対立しようとするのはやめなさい。
・(再びアガメムノーンへ)立腹を抑えなさい。アキレウスは確かに偉大な勇士で、アカイア側にとって大切なのだから。
アガメムノーン
・でも、アキレウスは他の人をしのぐことを考え、支配し命令しようとしてる。
私はそれには従わない。いくら相手が神の子であってもだ。
アキレウス
・あなたの言うことに譲歩はしない。私もあなたの指図は受けない。
・これだけは言っておく。プリセイスを取っていくのにはもう抗わないが、ほんの少しでも他の品々を取っていったら、私の槍の周りに黒々とした血が走ることになるぞ。
喧嘩をしながら二人は立ち上がって、会議は解散されました。
アキレウスは自らの陣屋の方へ仲間と向かって行きました。
一方アガメムノーンはまずクリューセーイスを返すために、船を出させます。
船隊を統率するのは知恵者オデュッセウスです。彼も相当の英雄でホメーロスの別の叙事詩『オデュッセイア』は彼を主人公にしたお話です。
残ったアガメムノーンたちは、アポローンをなだめる儀式を行います。
解散後、アキレウスのもとへアガメムノーンの使者が来訪
アガメムノーンは先ほどのことを忘れません。
忠実な二人の使者、タルテュビオスとエウリュバテースにアキレウスのところへ行くよう命じます。
乙女プリセイスをアキレウスから引き取るためです。
二人は命令なのでしぶしぶ向かいますが、船の傍らに座っているアキレウスのオーラに畏敬の念を抱き、震えあがって何も言えなくなってしまいます。
しかし、アキレウスは使者の二人は悪くないとし、親友であるパトロクロスに乙女を連れてくるように頼みます。もちろん納得はいっていません。
プリセイスも気乗りしないながらも使者と共にアガメムノーンのいるところへ行ってしまいました。
前半まとめ:疫病と喧嘩の物語
さて第一巻の前半はこのようにアキレウスとアガメムノーンの口論が語られています。分量的にはさらっと読める程度ですが、アキレウスの罵りの言葉が面白くて楽しい箇所です。
一巻前半の押さえておきたいポイントは以下です。
・トロイア戦争はゼウスによって引き起こされた。
・ゼウスは中立だが、他の神々はトロイア側についたりアカイア側についたりしている。
・アキレウスは戦線を退いた。
では後編へ続きます。ここまで読んでくださりありがとうございました。
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