『イーリアス』第一巻をひとつひとつ読む:後編

『イーリアス』

 前回に引き続き、『イーリアス』第一巻を初見でじっくり読んでいきます。

 前回までのあらすじ
 アガメムノーンは自分の愚行による贖いとしてお気に入りの乙女クリューセーイスを手放さなくてはならなくなった。アキレウスと対立した彼は、代わりとしてアキレウスのところにいる乙女プリセイスを彼から奪っていった。

母親のテティスがやってくる

アキレウス、涙

 アキレウスは乙女を乗せたアガメムノーンの従者らの船が去った後、抑えていた涙を流してしまいます。すぐに仲間たちのそばから離れて海のそばで座り込み、母である海の女神テティスに祈ります。

アキレウス
 ・母上、あなたが私をほんのわずかの間だけ生きているようお産みしたからには、名誉だけはゼウス様も与えてくれるはずだった。
 ・それなのに、アガメムノーンが私から褒美である乙女プリセイスを奪い、私を侮辱した。

 この場面は非常に印象的な場面です。勇ましいアキレウスが涙を抑えきれないシーンです。また、それを他人に見せないようにと人気のいない渚に向かうのも、大変人間らしい。
 本文には両手を差し伸べてしきりに母に祈ったとあります。お母さんになら涙も見せれるし弱弱しい姿もさらけ出して祈れるのでしょう。

 さてここで重要なのが、アキレウスの背負っている運命に言及されていることです。
 アキレウスは「戦いに参加しなければ長生きできるが、戦いに参加したのなら、戦場で不朽の名誉を挙げるが早死にする」という運命を背負っていました。

 母であるテティスはそのような運命を避けようと、本当は彼をトロイア戦争には参加させたくありませんでした。戦争のしばらく前にテティスは彼を育ての親から引き取って女装させ、別の国で匿わせていたほどです。
 しかしオデュッセウスが彼をその巧みな知恵で説得し参戦が決まったのです。

 アキレウスも自らの運命に自覚的でした。

テティス登場

 母である海の女神テティスは、深い海底で父である海の老神ネーレウスと一緒にいました。
 しかし愛しい息子の祈りが聞こえすぐさま海からアキレウスのもとへ駆けつけます

 またたく間に灰色の海から、霧のように立ち上ってきた。とあります。果てしのない海原からぼんやりと立ち上ってくるのです。天から降りてきたアテナとはまた違う登場ですね。

 そして息子を撫でて愛おしみながら何があったのか話すよう促します。
 「わかってるくせに」とは言いながらも、涙とため息とともにアキレウスは事の次第をテティスに伝えました。

 そしてアキレウスは母上にこんな頼みをします。

アキレウス
 ・侮辱された息子をどうかかばってほしい。
 ・もしあなたが本当に前にゼウスのことを喜ばせたことがあるのなら、そのことをゼウスに思い出させてほしい。
 ・そしてゼウスにトロイア側の加勢をしてもらい、アカイア側を追い詰めてほしい。アガメムノーンにわからせるために。

 ゼウスはテティスに恩がありました。
 オリュンポスでヘーラーやポセイドン、アテナたちが反乱を起こし、ゼウスを縛りあげようとした際にテティスはゼウスの味方に付き、縛られていたのをほどいてあげたことがあったのです。さらに五十の頭と百の腕を持つヘカトンケイルという怪物をゼウスの護衛のために呼び寄せてあげていました。

 アキレウスはそのことを知っていたのです。

 テティスは息子の訴えに自らも涙を流しました。

テティス
 ・短い寿命に生まれ、さらにこんな痛ましい目に合うなんて……
 ・ゼウスにちゃんとこのことは伝えます。
 ・しかししばらく待っていてほしい。ゼウスたちはお出かけ中だから。

 こう言ってテティスは帰っていきます。

 さて、ゼウスらオリュンポスの神々のお出かけ先は「オーケアノス、アイティオプスたちのところ」とされています。

 アイティオプスはエチオピア人たちのことで、当時のギリシア人は彼らを世界の東西両端に住んでいる民族としていました。
 太陽や月がそこから登り、沈むのを見て、エチオピア人は最も神に近く、神との交流も盛んな種族であると認識していたのです。エチオピア人は神と同じような生活を送っており、食べ物も人の埋葬方法も自分たちギリシア人とは全く異なっていると思われていました。

 オーケアノスは大河の神さまですが、この大河も世界の周辺を囲むようにあるとされていました。
 自分たちのいる場所から遠く離れた世界の端っこを想起していたのですね。

娘の返却、アポローン神をなだめる儀式

オデュッセウスが娘を返す

 まだ苛立っているアキレウスの一方、オデュッセウスたちは船をこぎ、クリューセーの町の入り江に入っていきました。


 アポローンへ捧げる牛たちと乙女クリューセーイスを連れて船から降りると、祭壇のところで神官クリューセースと合流し娘を返しました
 神官は喜んで彼女を受け取ったのち、アポローンの怒りを鎮めるための儀式を執り行います。

アポローン神へ捧げる儀式の様子

 疫病をやめてくれるようにアポローン神へ儀式を捧げます。その様子がここでは細かに描かれており、大変興味深いです。

①人々:贄である牛たちを祭壇に順序よく整列させる
②クリューセース:手をすすいでから(清めてから)、割麦を手に取る
③クリューセース:手に取ったまま、両手を挙げてアポローンへ祈りの言葉を述べる
④(アポローンがその言葉をしっかり聞く)
⑤クリューセースと人々:割麦を牛たちに振りかけてから、牛たちを屠る
⑥みんな:牛の頭を上げさせて喉を切り裂き、皮をはぐ。
⑦みんな:両腿のを取り、それに脂身を二重に重ねて覆いかぶせるようにする。その上に切った肉片を乗せる。
⑧クリューセース:割った薪の上にそれを置いて焼く。さらにそこへぶどう酒を注ぐ。
⑨若者たち:鉄串をもってその周りに立つ。
⑩みんな:腿肉が焼きあがる。臓物を味わう。
⑪みんな:他の部分(内臓など)を切り刻んで鉄串に通して念入りにあぶって焼く。

 ここで儀式はとりあえず一旦終了し、あぶったお肉を食べる饗宴へと移行します。この饗宴ももちろんアポローンをたたえ、なだめるための宴会であり、みんなが酒を飲む前には必ず神へ少量を捧げます。
 また、アポローンへの賛歌も歌われます。

 ここでは古代ギリシアで実際に行われていた神への儀式が描写されていますが、ここには骨と臓物という対比が行われています。
 ⑦と⑧で作られたものは神へ捧げるもので、薪の上ですっかり焼いてしまい、神がいる天へいい匂いの煙が上っていきます。神は骨を焼いて出る煙を味わうのです。対して人間は臓物を食べます

 この様式はプロメテウスという神とゼウスの間で起こった事件がもとになっています。

 はるか昔、プロメテウスは人間に神よりもよい運命(ギリシア語でモイラ)を与えようと、ゼウスを騙そうとたくらみます。ゼウスの前に出て、骨を脂身で包んだものと、内臓や肉などを皮で包んだものを差し出します。
A.美味しそうな脂身だけど、実際の中身は骨で食べられない
B.食べられない皮だけど、実際の中身は内臓や肉で食べられる

 この真反対の二つから一つを神の運命としてゼウスに選ばせます。プロメテウス的には、ゼウスが美味しそうな見た目に騙されて実際は食べられないAを選び、人間の側にBの有益な内臓や肉がいくことをたくらんでいました。

しかし、ゼウスはプロメテウスの企みを見抜いており、それでいてAを選択。プロメテウスは「やったー」と思いますが、なんと本当に有益で神々にふさわしいのは食べられない骨が入ったAだったのです。
 骨は内臓とは違い腐りません。ゆえに神の永久性、不死性を象徴するのです。対し、内臓は腐り、すぐダメになります。これが死すべき存在という人間に与えられた絶対的な運命となりました。

 ギリシアの神話的人間観はとにもかくにも「不死の神々、死すべき人間」です。このモイラの区別が何よりも絶対的で大切です。
 上記のような儀式をすることで、この区別に何度も自覚的にならざるをえません。

 また個人的に興味深いのが、今回儀式をささげたのが、このモイラの区別をはっきりさせるのに厳格だったアポローン神であることです。アポローンに対し、同じオリュンポスの神であるディオニュシオスはこの区別をあいまいにする神でした。
 ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは元は優れた古典文献学者で、「アポローン的なもの(das Apollinische)」と「ディオニュシオス的なもの(das Dionysische)」の対比からギリシア悲劇の在り方に迫っています。(→ニーチェの『悲劇の誕生』を参照)

 さて、話を『イーリアス』に戻すと、この儀式と饗宴に心を慰められたアポローンは疫病を止め、オデュッセウスたちが無事に自分たちの陣屋へ帰れるように、追い風を船にかけてあげました。

テティスがゼウスに頼み込む

神々が帰還、すぐさまテティスはゼウスのもとへ

 エチオピアへお出かけに行ってから12日目、朝にゼウスたちはオリュンポスへ帰ってきました。
 それを確認したテティスはすぐに海からオリュンポスへ昇っていきます

 ちょうどゼウスは一人で、オリュンポス山の一番高い峰に座っていました。これはチャンスだと、テティスはすぐに向かい、左手はゼウスの膝、右手は顎に沿わせてすがります。

 アキレウスがテティスに願ったことをそのままゼウスに伝えます。もちろん、ゼウスにあの時の恩を思い出させながらです。

 ゼウスは長い間沈黙します。テティスもジッとすがりついたまま待ち、しばらくしてからゼウスに返事を促しもします。
「無理なら断ってください、それでどれほど私がみんなの中で一番馬鹿にされてる女神なのか合点がゆきますから」
 恩があるのは事実だし、こんなこと言われたら尚更断りにくいです。テティス、したたかな女です。

 ゼウスは当惑しながらこう述べます。

ゼウス
 ・ヘーラー(ギリシア側を応援している)と喧嘩するように仕向けるのか、全く厄介な仕事だ
 ・ヘーラーはただでさえ私がトロイア側についてると小言を言ってくるのに。
 ・とにかく、ヘーラーに気付かれたらまずいから下界に降りていきなさい。
 ・私がそのように上手くとりはかるから。

 ゼウスはヘーラーをやっかみながらもテティスの願いを承諾します。本文中には、テティスが安心するように今、頷いて見せようとあります。
 ゼウスが頷けば、もう神々の間でもそのことは決定されたことになり、取り返しはつかず、必ず成就するのです。この頷きはそうなることの証明でもあるのです。
 この頷きの勢いで神が揺れ、オリュンポスの峰々をおどろおどろと揺り動かしたほどだそうです。

 ゼウスが承諾してくれたのを見て、テティスは満足し海へ帰っていきます。
 しかし実はこっそりヘーラーは二人の密約を見ていました……

ゼウスとヘーラー 夫婦間の言い合い

 ヘーラーはゼウスの妃ですが、あまり大切にされておらず、神話ではだいたいがゼウスの浮気に嫉妬し、浮気相手には容赦なく、ゼウスには小言を言う嫌な妻として描かれています。

 今回もゼウスがテティスと会っているのを見て、ゼウスが宮殿に帰ってきた時に、小言を言いだします。

ヘーラー
 ・神々の中でも悪賢いお方は誰と密会していたのかしらね。
 ・あなたは本当に私のいないところで内緒事をはかって決定を下すのがお好きですわね。自分の方から考えを言ってくれることもないし。

ゼウス
 ・妃とはいえ私の一切の考えを知り尽くそうなど思うなよ。
 ・あなたに聞かれてもいいことなら真っ先に言うし、自分一人で決めることならそれを問いただすことないように。

ヘーラー
 ・何言ってるのよ、私今まであなたを問いただしたことなんかないじゃないの
 ・でも今回は心配なの。テティスがあんなにすがりついていて、あなたはトロイア側に有利になるように約束したのでしょう

ゼウス
 ・そなたはいつも私から目を離すまいと思ってるんだな
 ・そうしたとしても、私から疎まれ、もっとつらい思いをするだけだ。私がそなたを倒そうとしたとしてオリュンポスの他の神々は無力だろうし。(脅し)

 ゼウスの脅しにさすがに怖くなったヘーラーは、いろんな感情を抑えながらも席に戻っていきます。
 その様子を見た他の神々は胸を痛めます。

ムードメーカー、ヘーパイストス

 宮殿中の空気がなんだか悪くなったところで、ゼウスとヘーラーの子のヘーパイストスが立ち上がります。

 ヘーパイストスは工匠として知られており、鍛冶の神様です。脚が不自由で、上手く歩けず、不具の神ですが、面白い神様でここでも気まずくなった場を一転させてくれるのです。

ヘーパイストス
 ・ゼウスには小言じゃなくて柔らかい態度で接した方が良いよ。
 ・辛いと思うけど辛抱してください。お母さまが叩かれるところは見たくない。
 ・ゼウスは厄介だぞ~、この前だってちょっと刃向かったら、足を掴まれてオリュンポスから地上へ放り投げられて、一日中空を飛んでいてヘロヘロになったよ。

 ヘーパイストスの話にヘーラーは機嫌を戻し、微笑を浮かべます。(ゼウスに放り投げられた話は、ゼウスからヘーラーをかばうためにヘーパイストスがゼウスに反論した際の話だとされています)
 そうしてヘーラーは彼が話しながら差し出してくれた杯を受け取りました。


 ヘーパイストスは他の神々にもお酒を配ります。御殿の中を息を切らしながら、不自由な足を引きずり、飛び跳ねるように周る彼の様子に、神々は大笑い。笑わせているのか、笑われているのかわかりませんが、とにかく嫌な空気は一変し、饗宴は一日中続きました。

 アポローンが得意の琴を弾き、詩歌や芸術の九人姉妹の女神ムーサたちも歌います。宴をすっかり楽しみ、日が沈むころには、神々は自分たちの館へ休みに帰るのです。
 神々の館もヘーパイストスが巧みな知恵と工夫を凝らしてつくってあげたものでした。

 『イーリアス』第一巻はゼウスもヘーラーも、館でゆっくり休むところで終わります。

後半まとめ:疫病は終わった

 第一巻は疫病と、アキレウスとアガメムノーンの喧嘩の話でした。

 前半で二人の喧嘩があり、後半では神々への儀式と、神々たちの間での出来事が語られています。


 地上の人間たちも、天上の神々も、最後は宴をして場が丸く収まっています。同じように描写されながらも、やはり両者の大きな違いとして死すべき存在か否かという点があることに逆に意識が向く気がします。

 第一巻後半のチェックポイントです。

・テティスの願いを聞き入れ、ゼウスは一時的にトロイア側を応援するようになった
・不死か死すべきかという神と人間の運命の区別

 第二巻は約束を果たそうとするゼウスによって、アガメムノーンが悪い夢を見るところから始まります。
 ここまで読んでくださりありがとうございました。

【参考図書】前後編併せて
 この記事は、筑摩書房、『世界古典文学全集 第1巻 ホメーロス』を初見で読んでまとめています。訳者は呉茂一さんと高津春繁さんです。
 また一次文献とは別に、以前に読んだことのある
・吉田敦彦著『ギリシア神話の光と影 アキレウスとオデュッセウス』、青土社、2018
・吉田敦彦著『謎解きギリシア神話』、青土社、2014
 などを参考にしています。

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