『イーリアス』第九巻をひとつひとつ読む:後編

『イーリアス』

 こんにちは、すずきです。今回は、前回に引き続き『イーリアス』第九巻の後半を読んでいきます。

 前回までのあらすじ
 ギリシア軍の危機を脱するため、戦線を退いていたアキレウスを呼び戻そうとするアガメムノーン。彼はアキレウスのもとへ説得のための使節団を派遣する。しかし、使節団の一人オデュッセウスの巧みな話術でさえも、未だ怒れるアキレウスを説得することはできなかった。

ポイニークスの説得

 オデュッセウスの説得は、アキレウスの強い拒絶でもって退けられました。その様子を見ていた使節団の一人ポイニークスは、アキレウスの返答と、ギリシア軍の危機に涙を抑えきれませんでした。

 そして今度は彼自身がアキレウスに話しかけます。

話①ポイニークス自身の過去

 ポイニークスとアキレウスはトロイア戦争が始まった十年前、いやそれ以前からの深い付き合いでした。

 戦争に参加することになったアキレウスは当時まだ若く、アキレウスの父ペーレウスがお世話役・教育係としてポイニークスを指名していたのです。

 ポイニークスはアキレウスに対する想いを、自分の、ペーレウスに出会うまでの過去を交えて語りだしました。
 ポイニークスが若い頃、彼が故郷を棄てることになったとある事件がありました。

ポイニークスの過去

・ポイニークスが若い頃、父は正妻である母をないがしろにして、妾の方を愛していた。
・母はそれを悲しみ、息子であるポイニークスに、彼が例の妾を手に入れるようにすがった。若いポイニークスと一緒になれば、年のいった父を妾は嫌いになるだろうから。
・ポイニークスはそれを承諾。
・しかしそれに対しは激怒、復讐心でポイニークスを呪う。その呪いは子供ができなくなるようにというものだった。

・ポイニークスは父への殺意を押しとどめ、父と一緒の屋敷から抜け出すことを狙う。
・しかし、親族などが火を灯して見張りをし、ポイニークスが逃げないようにしていた。
・十日目の夜、ポイニークスは人目を盗んで脱出に成功。その後ヘラス中を逃げ回る。
・そうして辿り着いたのが、プティエーという地だった。

・プティエーに来て、ペーレウスのもとを頼ると彼は快くポイニークスを迎え入れ、息子のようにもてなしてくれた。
・ペーレウスが品物や部民なども与えてくれて、それ以来ポイニークスはプティエーで暮らすことに。

 このような波乱万丈な過去があったポイニークスにとって、アキレウスの父ペーレウスは命の恩人です。

 命の恩人の息子であるアキレウスを、ポイニークスは幼い頃から心底可愛がっていました。

 幼いアキレウスは人見知りだったのか、ポイニークス以外の人との晩餐の場などでは全くご馳走に手を付けようとしなかったそうです。
 それをポイニークスがアキレウスを膝の上に乗せて、お肉を切って食べさせてあげていたのです。

 幼いアキレウスがお口からぶどう酒をこぼして、ポイニークスの肌着が汚れたことも幾度もありました。
(微笑ましいエピソードですね)

 父親からの呪いのせいで自分には子供が授からないと思っていたポイニークスにとって、アキレウスは我が子同然でした。それほどポイニークスはアキレウスを愛しているのです。

 だからこそアキレウスには、怒りを鎮めて、英雄らしく皆のために戦ってほしい。ポイニークスはそう願いました。

話②祈願の女神たち

 さてポイニークスはさらに別の話として祈願(ギリシア語でリタイ)の女神たちの存在も出してアキレウスを説得します。

「神々でさえ、怒りや悲しみなどをグッとこらえて耐えることもあるのだ。また、人間の方はなにか過ちを犯した時に神々に祈願や供犠を捧げて、許しを求めるのが習わしだ」

 こう述べたポイニークス。つまりここでは過ち(とそれに伴う罰)に祈願がセットであることを示しています。

 祈願の女神たちについて調べてもあまり出てこないのですが、ゼウスの娘たちであり、迷妄(アーテー)の女神について回っている女神たちです。
 つまり迷妄と祈願はワンセット。

 祈願の女神たちは足がびっこを引いていて、顔もシワだらけ、斜視でもあるとか。それとは対称的に、迷妄の女神は足が速く、力も強いです。
 だからいつも迷妄の女神がどんどん一人で先に進んでは人間どもに禍をもたらしていくのを、祈願の女神たちが後からぴょこぴょこやってきて後始末をしていくのだと語られています。

(迷妄という負の情が先立ち、祈願・請願をするのはいつも後悔と同時に……という人間のあるあるな愚かさを、擬人化して表していて面白いです。古代ギリシア人はすぐ現象を擬人化しますからね)

 迷妄(=相手への情や理性を失っている状態)が人間に取り憑いて、その人は過ちを犯してしまう。

後から遅れてやってきた祈願の女神たちが、その人に許しを請わせるようにする。

 この場合、ポイニークスはアガメムノーンのことに言及しています。
 あの時は、アガメムノーンに迷妄の女神が取り憑いて、あのような無礼をアキレウスに働かせてしまった。そして、後から祈願の女神たちが彼のもとにやってきて、今、たくさんの償いと共にアキレウスが戻ってくるように祈願しているのである、ということです。

 そして、ポイニークスは
「そんなゼウスの娘たちである祈願の女神たちをないがしろにしたら、今度はアキレウス自身が迷妄の女神に取り憑かれ過ちを犯すことになるぞ」
 と忠告、説得するのです。

 何も償いの品々が用意されていないならともかく、アガメムノーンが提示したのは、豪華な品々と十分すぎるほどの条件です。それをないがしろにするのは良くないとポイニークスは強調しました。

話③メレアグロス

 ポイニークスはさらに話を続けます。

 ここでは昔話として知られている「アイトーロイたちとクーレーテスたちの戦い」の話を持ち出します。
(アイトーロイはアイトーリア人たち、クーレーテスは近くのクーレースという国の民たちという意味。その両国の間で戦争が起こった)

アイトーロイVSクーレーテス ~メレアグロスの憤怒~

・アイトーリア地方、カリュドーンという国の王オイネウスは、祭りで他の神々には供犠を捧げたのに、アルテミス女神へだけはそれを忘れてしまう
・アルテミスは激怒し、カリュドーンに獰猛なイノシシを送り込む。
・イノシシ大暴れ。
・オイネウスの息子メレアグロスは、イノシシを退治するため様々な地方から勇士たちを募る。
・勇士たちは苦戦しながらもイノシシを撃退。(→「カリュドーンの猪狩」

・アルテミスは今度は、倒したイノシシの皮の扱いを巡ってアイトーロイたちとクーレーテスたちとの間に戦争を起こさせた。
・勇猛なメレアグロスを前にクーレーテスたちは苦戦を強いられる。
・それを見たメレアグロスの母アルタイエーは息子メレアグロスが死ぬように神へ祈る。
(・クーレースの王テスティオスはメレアグロスの母の兄弟たち=伯父たちであったので)
・母アルタイエーの願いを聞き入れた復讐の女神が、メレアグロスを呪った。
・メレアグロスは途端に憤怒に取り憑かれ、妻のクレオパトラと共に過ごし、戦いに出なくなった。

・メレアグロスがいなくなったので、アイトーロイはたちまち劣勢に。
・危機を感じた長老たちが、たくさんの贈り物や条件を示しメレアグロスを説得。父オイネウスでさえも息子に跪いて嘆願した。メレアグロスの仲のいい友達も説得を試みた。
・しかし、メレアグロスはそれを退ける

・ついにクーレーテスがカリュドーンの都に火をつけた。
・それを受けた妻のクレオパトラが必死にメレアグロスに懇願。涙ながらの言葉に、ようやくメレアグロスは立ち上がった。
・メレアグロスはかろうじてカリュドーンの壊滅を阻止したが、提示されていた贈り物を受けとることなどできなかった

 まさに今の状況とそっくりなことが過去に起こっていたようです。

 カリュドーンの猪狩というと、ギリシア神話の中でも有名なエピソードです。「アルゴー船の冒険」などとも同列視される、いわゆる「英雄大集合エピソード」です。

 アキレウスの父ペーレウスやネストール、アルゴー船の冒険の主人公イアソン、ふたご座の由来カストルとポルックス、アイアースの父テラモーンなどなどが参加したとか。
 つまりトロイア戦争で活躍中の英雄たちの一つ上の代の話のようですね。

 (しかし、カリュドーンの猪狩に関しての『イーリアス』での記述は、どうやら異説の一つであるとのこと。アポロド―ロスという人がまとめたギリシア神話集では、異なった内容で伝えられています。)

 カリュドーンの猪狩は有名ですが、ポイニークスが言いたいのはその後のこと。

 憤怒に取り憑かれ、戦争を退いたメレアグロスを今のアキレウスに重ねて、彼のようにならないようにと忠告しているのです。

 メレアグロスは説得を退け、結局償いも褒美も受け取るどころではなくなった、ギリギリのタイミングでようやく立ち上がることになったのです。
 アキレウスが今立ち上がれば、彼のようにはならず、償いの品々をしっかり受け取ることができ、もちろん戦士としての誉れも手に入れられます。
 だから怒りの心を抑えて、アガメムノーンの提示した条件を飲み込んでくれないかと、ポイニークスは頼み込みました。

アキレウス、説得失敗

アキレウスの反応

 自分と似たような状況の昔話を語られても、アキレウスは受け入れようとはしませんでした。

 同郷で、長い間慕っているポイニークスが、憎いアガメムノーンに忠義を立てて、そっち側についているのがアキレウスには納得できません。
 むしろ自分の側についてもらう方が、ポイニークスにとっても良いことだと述べます。

 そして使節団に帰ってくれと言い放ったのです。

 また、アキレウスの指示を受けて、パトロクロスはポイニークスをここに泊らせる支度をはじめました。

アイアースも説得を試みるが……

 強情なアキレウスにアイアースは半ばあきらめ気味に語ります。呆れているようなニュアンスも汲み取れます。

アイアース
・オデュッセウスよ、目的は果たせそうにないからもう帰ろう。そして待っているギリシア戦士たちに伝えよう。
・アキレウスは全くの強情で、傲慢、無情だ。
・私たちが盟友として彼を大切にもてなしてきたというのに。
・世間には子供や兄弟を殺されても、償いの品々を提示されれば、怒りを鎮めて相手を許す人間がたくさんいる。
・だが、あなたはたった一人の乙女(ブリセイス)のことでまだ怒っている。こちらは七人の乙女+αの償いを提示しているのに。
・条件を飲んでくれないか。ここに来るほど、私たちはアキレウスのことを大切に思っているのだ。

 アイアースもこのように言葉をかけますが、もはやここまで来たらアキレウスの考えは変わりません。

 アキレウスは、
「ヘクトールたちが私たちの陣屋にまで攻めてきたのなら戦うだろうが、それまでは戦うつもりはない」
と切り捨てます。

使節団、撤退

 アキレウスによって拒絶され、帰るように言われた使節団。神に祈って、晩餐の場を区切らせてから帰っていきます。
 アキレウスと同郷のポイニークスはギリシア軍のもとには戻らないで、アキレウスの陣屋に留まることになりました。

 アキレウスもパトロクロスもそばに女を沿わせて眠りにつきます。

落胆するギリシア軍

 一方、ギリシア軍の陣屋が連なる場所へ戻ってきたオデュッセウスとアイアースたちは、兵士たちに立ち上がって迎えられました。
 説得の結果を楽しみで待っていたのです。

 アガメムノーンが代表してオデュッセウスに結果を尋ねます。

 オデュッセウスはアキレウスの陣屋で話したことを正確に伝えました。

 つまり
・アキレウスは贈り物を拒み、より一層いきりたったこと。
・「アガメムノーン自身が、このギリシア軍のピンチをどうするか考えろ」と言ったこと。
・アキレウス自身は「もう故郷に帰るぞ」と脅してきたこと。
・「どうせトロイア攻略はできないから他の戦士も故郷に帰ればいい」と勧めてきたこと。
・ポイニークスはアキレウスの陣屋に泊って行ったこと。
 です。

 もちろん、オデュッセウスのこの返答を聞いてギリシア軍はひっそりとし、悲しみに暮れていました。

 落胆するギリシア軍たちに、しばらくしてからディオメーデースが口を開きます。

「とにかくアキレウスのことは放っておきましょう。今の提案でより一層、彼を傲慢にしてしまったようです。だから今は飲み食いをして心を慰め眠りにつき、明日からの戦いに備えましょう」

 ディオメーデースがこの場をまとめ、皆賛成しました。とにもかくにも、アキレウスの返答からして今のギリシア軍に出来ることはそれくらいだったのです。

 ギリシア軍はこの通りに、食事をとって眠りにつきました。

まとめ:アキレウスは帰ってこず

 第九巻は主人公アキレウスの久々の登場でしたが、彼の描写はあまりかっこよくはなく、怒りんぼのようです。
 またしばらく彼のいない戦場のシーンが続きそうですね。

・アキレウスの説得には失敗。
・アガメムノーンはアキレウス無しで、この窮地を乗り越えなくてはならなくなった。

 さて、追い詰められたアガメムノーン及びギリシア軍はどのようにピンチを乗り越えるのでしょうか。読み進めるのが楽しみです。

 今回もここまで読んでくださりありがとうございました。

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