『イーリアス』第四巻をひとつひとつ読む:前編

『イーリアス』

 第三巻から戦闘シーンは始まっていますが、第四巻はギリシア軍とトロイア軍の数多くの兵士が戦場で混ざり合って戦う壮大な場面が描かれています。

 読んでいて思うのは、人間の命とは(英雄でもない限り)取るに足らない命だということです。その人が死んでも戦争は続くし、世界も存続します。

 前回までのあらすじ
 パリスとメネラーオスの一騎打ちは、パリスがアプロディーテの援助を受けすんでのところで戦場を離脱したことにより決着はつかなかった。優勢だったメネラーオスの勝利だと主張するギリシア側は、決闘に際して交わした誓約のとおり、トロイア側へ賠償を請求した。

誓約が破られる

神々の会議

 パリスとメネラーオスの一騎打ちが曖昧になったところで、天上の神々はその様子を見て会議を開いていました。
 (ギリシア側をひいきにしているヘーラーとアテナは早速隣同士に座ってコソコソとどうしたらギリシアに有利になるかを話し合っていました)

 そこでゼウスが口を開きます。

ゼウス
・メネラーオスを援護している女神は二人(ヘーラーとアテナ)いるが、どちらも座って見下ろして喜んでいるだけで、自ら戦場に赴いてパリスを助けてあげているアプロディーテとは大違いだ。
・しかし勝利はメネラーオスのものなのは確か。なので、財宝とヘレネーはギリシア軍が持ち帰って、トロイアの国は存続させるという感じでこの一件を片付けるのはどうか。

 ヘーラーとアテナに向けての嫌味たっぷりの言葉です。(もちろんゼウス的には戦争を終わらせる気はないですが、トロイアを存立させるとほのめかしてヘーラーを怒らせようとからかっています)

 この言葉にアテナは何も言わないものの渋い顔をして怒りを抑えました。一方ヘーラーは我慢できずに言い返します。

ヘーラー
・どうしてあなたは私がプリアモスたち(トロイア側)を追い詰めるため色々頑張った仕事をなかったことにしようとするのです。
・先ほどの提案など他の神々は賛同しませんよ。

 ヘーラーの口答えにゼウスは大層不機嫌になります。

ゼウス
・いったいなぜプリアモスやその息子たちがあなたにそれほどまでの悪いことをしたというのだ。
・そんなにトロイアを陥落させてしまいたいなら、いっそのこと自身でトロイアへ降り立ち、トロイア側の人間を生きたまま喰らってしまえば怒りも収まるだろうかね。やりたいようにやるがいい。
・しかし、こちらも私が滅ぼそうとする都市にあなたのお気に入りの人間がいたとて干渉しないように。私としてもお気に入りのトロイアをあなたが攻めていることを許してあげているのだから。

ヘーラー
・たしかに私には三つお気に入りの都市(アルゴス、スパルタ、ミュケーナイ)がある。あなたがそれらを滅ぼしたくなったら私は邪魔はしない。あなたはとても強くて敵わないから。
・しかし私が力を入れたこのトロイア攻めの仕事を成就せずに終わらせるわけにはいかない。私としてもあなたと同じ生まれ(姉弟)だし、最高神であるあなたの妃である、それほど尊い女神であるはずなのだから。

 以上のように口論が交わされたのち、ヘーラーは今のこの状況に対して以下のように提案します。

ヘーラー
・この度はお互いに譲り合いましょう。
・アテナに言いつけて、トロイア軍からまず誓約を破ってギリシア軍を攻撃させることにしましょう。

 ゼウスはヘーラーの提案を承知しました。他の神々もこれに賛同します。

 ヘーラーはすぐにアテナに戦場に行くよう指示をし、提案通りになるように仕向けさせるよう命じます。

アテナ、パンダロスをそそのかす

 アテナはトロイア側の長老であるアンテノールの息子ラーオドコスの姿に化けて、トロイア側の軍勢にやってきました。

 そして、パンダロスを見つけて近づきます。

 彼はゼレイアという地方から軍を率いてトロイアに援軍に来ており、アポローンから直接弓をもらったという弓の名手でした。(第二巻824行より)
 そんな彼にアテナはこう吹き込みます。

アテナ
メネラーオスに向かって思い切り矢を射ってみたらどう? そしたらトロイア中のみんなから感謝されて栄光を受けるよ。
・パリスもそれを見たらとりわけ君に感謝するはずだ。
・アポローン神に祈ったのち弓を引くのだ。

  パンダロスは俄然やる気になって、すぐに弓矢を用意します。彼の部下たちは射っている最中にパンダロスが攻撃されないように周りを楯でガードしました。
 もちろん弓を引く際には、アポローンへの祈りと生贄献上の誓いをしてからです。

 パンダロスの放った矢はまっしぐらにメネラーオスに向かいました。

 こうして休戦を約束していた両軍の誓約が、トロイア側のパンダロスによって破られたのです。

怒るギリシア軍、そして戦争へ

メネラーオスが矢によって傷つく

 パンダロスの放った矢は勢いよく、正確にメネラーオスを射抜く軌道を描きました。

 しかし、アテナはそれを許しません。素早い矢がメネラーオスを射抜く直前で矢を払い落としてあげました。
 それだけではなく、払い落とした矢をもう一度手に取ると、アテナはそれを上手い具合にメネラーオスの鎧が二重になっていて丈夫なところへ向けました

 矢は腹帯と鎧を貫きましたが、アテナが調節したのでメネラーオスの肌の端っこをちょっとひっかいたくらいの傷でした。

 とはいえやがてがメネラーオスから流れてきます。それを見て兄のアガメムノーンはぎょっとし身震いしてしまいます。
 メネラーオスも自身が矢に打たれたと知り怖くなりますが、よく見れば大した傷じゃなく、矢の切っ先もほとんど見えているので、安心しました。

嘆くアガメムノーン

 休戦の誓いが破られて弟がケガをした。この事実にアガメムノーンは嘆き、戦士たちの間に立つと、誓いを破ったトロイア軍への恨みを叫びます。

 誓約は儀式をしてゼウスたち神々に誓ったことですから、それを破ったトロイア側には恐ろしい神罰が降ると訴えます。

 しかしそれよりもメネラーオスが攻撃されたことに対する深い嘆きをアガメムノーンは口にするのです。

アガメムノーン
・メネラーオス、君が死んだら私は恐ろしい苦しみに襲われて、酷い咎めを負ってギリシアに帰ることになるだろう。
・そうすれば他のギリシア軍の戦士たちも故郷に帰りたくなって、ヘレネーを取り戻しもせずに帰ってしまうのだろう。
・さらにはこのトロイアの地に君の死体が埋められて、トロイア人がそこに駆けあがって侮辱するような言葉を吐くのだ。
・もしそうなったら私のことを大地が飲み込んでくれるよう。(死なせてくれ)

 こんなにも嘆き悲しむ兄をメネラーオスは安心させようとします。傷は全然深くなく、甲冑でほとんど防がれていると伝えます。

 アガメムノーンは少し安堵しますが、それでも不安でマカオーンという医術に長けた戦士を呼び出すよう伝令使に言いつけました。

ギリシア軍の医療係マカオーン

 マカオーンという男は本土の北部トリッケーの方から来ていた戦士です。親にかの医神アスクレピオスを持ち、本人も医術に長けた人物でした。

 伝令使の言葉を聞いてメネラーオスが心配になった彼は急いでメネラーオスのいる場所へ向かいます。

 傷ついているメネラーオスを見つけると、矢を引き抜き、彼を守った腹帯を解きました。他にも着込んである帯や腹巻を外して、傷口からまず血を吸いだすと、痛み止めの薬草を塗り付けて処置をしてあげました。

 この技はマカオーンの父、アスクレピオスがケンタウロスの賢者ケイローンに教わったものでした。

 アスクレピオスは、まだ胎児だった頃に手違いで母親が女神アルテミスに殺され、アポローンによって死んだ母のお腹から救出されてケイローンというケンタウロスに預けられます
 ケイローンのもとで先ほどのような薬草術などを教わり、どんどん医術の才能を開花させていきます。

 しばらくして彼の医術は(アテナの助けなどもあって)死者蘇生までできるようになったので、死すべき存在という人間の運命を覆す危険があるとしてゼウスに殺されてしまいます。
 しかしそれほどまでに優れた医術を持っていたので神の仲間として迎え入れられ、「医神」とされています。

WHO世界保健機関のロゴ
世界保健機関のロゴ。(WHO世界保健機関、公式ホームページより)

 彼のアトリビュートである蛇が巻き付いた杖は、WHO世界保健機関のロゴマークにもなっています。

 またケイローンというケンタウロスの賢者もギリシア神話ではよく出てくる人物ですね。数々の英雄の養父になっています。同族のケンタウロスたちの見守り役もこなしていました。


 ケンタウロスというと横暴で頭も悪い種族というイメージなのですが、ケイローンは他のケンタウロス族とは出自が異なり、ゼウスたちとは異母兄弟に当たります。(どちらも父がクロノス)
 またケイローンはアポローンやアルテミスに様々な術を教わり、育てられたため優れた知恵や様々な技術を持っていました。

 そんなケイローンにアスクレピオスは医術を教わり、アスクレピオスは息子のマカオーンにその医術を伝承していたのですね。

戦争の再開

 メネラーオスがマカオーンの処置を受けている間にも、トロイア軍はギリシア軍の方へ押し寄せてきました

 メネラーオスの負傷を嘆いていた時から一転、アガメムノーンはすぐに戦に向けて意気込み、戦士たちの間を徒歩で闊歩しながら声を張り上げます。
 戦いを前にして闘志に燃えるギリシア戦士たちを奮い立たせるためです。

アガメムノーン
・戦への意気込みを緩めるなギリシア軍たちよ!
・誓約を破ったものにゼウスが味方するはずはない。そいつらの死体はハゲタカに食われ、妻子たちはギリシア軍がさらっていくことになるだろう。
・(戦を恐れ尻込みする戦士に対して)、ギリシア軍というお前たちが掛け声ばかりで実際にはボーっと立ち止まっているのはどういうことか。

 上記のように、意気込む戦士たちにはさらに闘志を煽るような言葉で激励し、怖気づいている戦士たちには厳しい言葉で叱りつけました。

 アガメムノーンはそれだけでなく、どんどんギリシアの軍勢の間を進んでいき、自軍の状況を自らの目で確認しに向かいました。

前半まとめ:誓約の破棄とギリシア軍の奮起

 ギリシア軍は誓いを破られ、大切なメネラーオスを不意打ちで攻撃され怒っています。トロイア軍もパンダロスが先制攻撃したのを見て、覚悟を決めたのでしょう。全面戦争です。

・神々はトロイア側に先に誓約を破らせることにした。
・アテナに言われてトロイアの弓の名手パンダロスがメネラーオスを不意打ちした。
・メネラーオスはアテナの加護で軽傷。
休戦が破られ、戦闘状態へ。

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

【参考図書】
 すでに紹介したものに加え、新たに
・マーティン・J・ドハティ著 岡本千晶訳『ヴィジュアル版 ギリシア神話物語百科』、原書房、2023
を参考にしています。

 また今回の記事では、WHO世界保健機関のロゴマークを示すため、WHOの公式ホームページからロゴをお借りしました。(WHO公式ホームページ、https://www.who.int/)

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