『イーリアス』第六巻をひとつひとつ読む:前編

『イーリアス』

 今回は『イーリアス』第六巻を読んでいきます。
 私が記事を作成するのに読んでいる全集では、第五巻と第六巻ではページ数が二倍くらいの差があります。第五巻に比べて第六巻は半分ほどの短さなのです。
 第五巻の記事は前後編ともに長くなりましたが、今回はサラッと追っていけるかなと思います。

 前回までのあらすじ
 ギリシア軍とトロイア軍は、それぞれ神々の支援を受けながらも一進一退の攻防を続けていた。

激しい戦闘は続く!

ギリシア軍、猛攻

 アテナとヘーラーは天上に帰っていきましたが、ギリシア軍は神々の支援が止んでも猛攻を続けています。

①大アイアースがトラキアから来ていたアカマースを殺す。
②ディオメーデースがアクシュロスを殺す。アクシュロスの従者カレーシオスも殺す。
③エウリュアロスがドレーソスとオペルティオスを殺す。
④さらにエウリュアロスは、アイセーポスとペーダソスを追い、殺す。
⑤ポリュポイテースがアステュアロスを殺す。
⑥オデュッセウスがピデュテースを殺す。
⑦テウクロスがアレターオーンを殺す。
⑧ネストールの息子アンティロコスがアブレーロスを殺す。
⑨アガメムノーンがエラトスを殺す。
⑩レーイトスがピュラコスを殺す。
⑪エウリュピュロスがメランティオスを殺す。

 さて、このようにギリシア戦士たちは次々とトロイア戦士たちを討ち取っていきます。本文も、上述のことを淡々と述べるのにとどまっています。

アドレーストスの命乞い

 しかし、少し訳が違うのがトロイア戦士のアドレーストスです。

 アドレーストスは乗っていた戦車の馬が戦闘の際に、逃げ回って暴れ、木に引っかかり、戦車が壊れ、馬だけがトロイアの市の方へ逃げていってしまったところでした。乗っていた彼自身は戦車が壊れると同時に地面へ投げ出され、転がって倒れていたところでした。

 そこにメネラーオスが武器をもって近づきます。すると、アドレーストスはメネラーオスに縋り付き、命乞いを始めました。

アドレーストス
・殺さないで生け捕りにしてくれないか。
・父が金持ちだからあなたは、私を父に返すときにたくさんの身代金や品々を手に入れられる。

 いわゆる、「金か、金ならいくらでもある! だから、命だけは__」ですね。死亡フラグのテンプレート的なセリフがホメーロスの時代から存在していたことに大層嬉しくなりました。

 そういう感じで彼はメネラーオスの説得に成功します。メネラーオスは彼を生きたまま自陣へ持っていくように家来に頼みました。

 しかしその瞬間に兄であるアガメムノーンが登場。情けをかけたメネラーオスを非難し、「トロイアの人間は皆殺しだ」と告げます。
 メネラーオスは自分に縋り付いていたアドレーストスを突き放し、アガメムノーンが槍で彼を殺しました。

 アドレーストスさん、アガメムノーンが来るまでは命乞いに成功していたのに……。期待させられて結局殺されてしまいました。

 ネストールもそれを見て、ギリシア軍に
「今は武具や宝物を奪取するよりも、相手を殺して前進することを優先するのだ!」
と呼びかけ、戦士たちを奮い立たせます。

トロイア側、鳥占使ヘレノスの激励

 ネストールにもこう言われて士気を高めたギリシア軍。
 しかし、その直後、トロイア軍もヘレノスという鳥占使(とりうらつかい)によって鼓舞され、ギリシア軍に立ち向かっていきます。

 ヘレノス自体は初登場だと思いますが、鳥占使という役職は度々言及されていますね。
 鳥を使った占いをする人のことだろうと読み流していたのですが、ちょっとここで調べてみたいと思います。

 鳥占とは、鳥の様子を観察して、飛んで行った方向や食べているものなどから吉兆を占うというものです。古代ギリシアやローマの時代に盛んであり、占いと言えば鳥占いというほどメジャーな占い方法だったそうです。
 鳥は動物の中で唯一をもち、天に最も近いところにいます(つまり神々に最も近い)。そのため動物の中でもより重要視されていたのでしょう。

 占いというと昔はほぼ確実に正しいとされていましたから、鳥占使という役職は相当重要で説得力のある人物のものだと考えられます。

 ヘレノスはトロイア王プリアモスの息子の一人で、トロイア軍大将ヘクトールの兄弟です。鳥占いにおいても無双の人物と説明されています。

 そんな彼はヘクトールとアイネイアースがいるところにやってきてこう言います。

ヘレノス
・ヘクトールとアイネイアースよ、戦争や謀に関して貴方がたはトロイア軍の中で最も優れている。だからトロイアの軍勢の中をあちこち回って戦士たちを戦場に留めなさい。
・そうするなら私たちの方も、戦場に残ってギリシア軍と戦い続ける。
・でもヘクトールだけはトロイアの城へ向かいなさい
・そして僕と君の母(プリアモスの妻でトロイアの王妃ヘカベー)にトロイアの年寄りの女を集めてアテナの社で女神を祀るように言いなさい。
・アテナの神像に美しい衣を膝にお掛けして、祈りなさい。女神がディオメーデースを軍から遠ざけてくださるように。

 ヘクトールはこれを承諾し、言われた通りトロイア戦士たちを鼓舞したのち、戦場を後にします。

 このシーンですが、個人的に興味深いのは「神像に美しい衣をおかけしなさい」というところです。
 神殿にはそこで祀られている神様の像が飾られていると思いますが、それはただのシンボルや神の姿を示す像というだけではなく、その像自身が神と同一視されていることが読み取れます。

 他の宗教とは違い、偶像崇拝が当然であるギリシア神話の世界ですが、ここまで像が神自身であるような描写はなんだか新鮮に思いました。まぁ実際に神の意識が神像とリンクしている(つまり衣がかけられるとアテナの膝に布の感触があるとか)ではもちろんないでしょうが。
 神様的にはどういう気持ちで自分の神像について思っているのでしょうね。とにかく人々にとっても神にとっても、それがただの彫刻というわけではないでしょう。

グラウコスとディオメーデースの奇妙な関係

ディオメーデースとグラウコス、初対面

 場面は変わって、トロイア側の勇士グラウコス(サルペードーンの従者でリュキア地方から来ている)と、ディオメーデースが出会うシーンが描かれます。

 二人は戦場で相まみえ、一触即発。互いに自軍の軍勢の前へ相手を目指して進み出ると対峙します。

ディオメーデース
・君はどういう人物か。人間の中でも優れている者と見えるが今まで会ったことがない。
・私の相手をしようというのはもっとも豪胆さで優れているが、同時に不幸だ。
・もしあなたが神様なら私は戦おうとは思わない
・神と戦おうとするとリュコエルゴスのように命を長くは保てないからだ。
・でももし君が神でなく人間なら、もっと私の近くに寄るように、自らの死期を早めるためにな。

 ディオメーデースは自信に溢れ、強者の風格をセリフのあちこちに散りばめています。かっこいい!

 彼は神とは戦わないという主張をリュコエルゴスという男のエピソードを詳しく語りながらグラウコスに告げます。第五巻でさんざん神とやり合ったディオメーデースですが、今はアテナもいないし、少し反省中かもしれません。

 こんなセリフを言われた相手であるグラウコス。彼ははもちろん人間ですが、それほど立派な姿であったのですね。

 さて、リュコエルゴスという人物はトラキア地方のエドーネスというところの王であった人物でした。そして彼はオリュンポス十二神の一人であるディオニュソス信仰に反対した人物であり、それゆえに神々の怒りを買って罰せられたのです。

 ディオニュソス信仰では、女性が半狂乱状態になりながら森の中を駆け回るという様式があるのですが、リュコエルゴスはそれに反対し彼女たちを斧を持って追い回すと(おそらく)殺してしまったこともあります。
 ディオニュソスもそれに恐れを抱くほど、リュコエルゴスは剛勇な人物でしたが、結局ゼウスに盲目にさせられ、長くは生きられなかったのです。

 ディオメーデースは彼の例を出して、神々とやり合う危険を主張しています。

グラウコスの出自

 ディオメーデースに出自を問われたグラウコスは、「人間の生は枝先の葉のように儚いものであるのになぜそんなことを聞くのか」と前置きしながらも、ディオメーデースに向けて語りだします。

 昔、エピュレーという町にシーシュポスという男がいました。エピュレーという町はアルゴス、すなわちギリシア側の地名です。トロイア戦士であるグラウコスの系譜はギリシアから始まったものでした。
「シーシュポスの岩」という言葉は聞いたことがあるでしょう。シーシュポスは永遠に岩を山の上まで押し上げては岩が転がり落ちやり直すという苦行を与えられた人物です。彼はエピュレー、のちのコリントスの創設者ですが、神を何度も欺き罰せられた神話で有名です)

 そしてシーシュポスの孫がベレロポンテースという人物で、彼は秀麗で男振りも良く、立派な青年でした。

 そのベレロポンテースを悪く思っていた人物がいました。王であったプロイトスです。彼は嫉妬からベレロポンテースをアルゴス人たちが住んでいる地域から追い出しました。

 なぜ嫉妬を抱いていたかというと、そこにはプロイトスの妻が抱いたベレロポンテースへの好意とそのこじれが絡んできます。
 プロイトスの妻アンテイアは彼を誘惑しますが、見向きもされません。アンテイアは腹いせに「ベレロポンテースに無理やり迫られた!」とをつきます。

 もちろんプロイトスは激怒します。しかし、さすがに堂々と殺すのは憚られるため、ベレロポンテースをリュキアの方へ追放、さらに「とあるもの」を彼に手渡していました。

 それはベレロポンテースが死ぬように様々な苦行が刻まれた木の板で、何度も畳めるようになっているため彼は中身を見てはいませんでした。そしてその板を、リュキアの王に渡すようにプロイトスは彼に命じていました。
 リュキアの王イオバテースはプロイトスの舅に当たる人物でした。

 リュキアの王はベレロポンテースをたいそう丁寧にもてなします。しかし、十日目に例の板をベレロポンテースから受け取り、中身を知ってしまいました。そしてその板の内容の通りに、ベレロポンテースに恐ろしい難行を課します

 しかし、ベレロポンテースはその武勇で難行を次々とクリア怪物キマイラを倒し、リュキアの原住民とされる野蛮なソリュモイ人たちを倒し、アマゾネスたちとの戦いにも勝利しました。
 最終的に、彼を殺すために兵士たちを待ち伏せさせて襲わせますが、ベレロポンテースはそいつらも難なく倒し、町へ戻ってきました。

 さすがにここまですごいとリュキア王イオバテースも彼を認め、娘のピロノエーと結婚させ領土も分け与えます。

 ベレロポンテースとピロノエーとの間には三人の子供が生まれました。イーサンドロスヒッポロコスラーオダメイアです。
 ちなみにベレロポンテースはその後、神と対立するようになり幸せには生きられなかったとされています。イーサンドロスもアレスに殺されており、ラーオダメイアもゼウスとの間にサルペードーンを生んだあとは、女神アルテミスに殺されてしまいます。
 残っているヒッポロコスこそ、グラウコスのお父さんというわけです。

交わされた約束

 この話を聞いたディオメーデースは感動します。構えていた槍を地面に突き立てて優しい口調で話しだします。

 ディオメーデースの祖父であるオイネウスは昔、ベレロポンテースを自宅で20日間ももてなしたという話をディオメーデースは知っていたのです。
 ベレロポンテースという名を聞いて、彼と家同士のつながりがあることに気付いたのです。

 そして今の時代でもお互いに、そちらの地方へ行ったのならばもてなし合おうと提案します。また戦場では互いに槍を交わさないようにしようとも。

 両者はその約束に同意、固い握手を交わします。そして贈り物を送り合いました。

 このエピソード、ベタですけどすごく感動しますね。敵同士の友情、家系を尊ぶ感じがなんだかジーンと来ます。乱戦状態の戦場で生まれた絆……、殺戮のシーンが続いていましたから少しホッとする場面でした。
 ディオメーデースもすっかり暴れまわってた血生臭い雰囲気から一人の心優しい青年になっています。

前半まとめ:戦場の中での絆

 ちょっとした優しいシーンが挟まった第六巻前半部。こういうのがあると殺戮シーンにもメリハリが出ていいですね。『イーリアス』が文学として評価が高いのもうなずけます。

・両軍は今も乱戦状態。
ヘクトールはヘレノスの助言を受け、一旦トロイア城へ戻っている
・ディオメーデースとグラウコスの間で、友情が芽生えた。

 第六巻後半部は、トロイアの城壁の中へ戻ったヘクトールとその妻の話です。ここも少し心が温まる場面になりそうですね。

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

参考図書
 今回は鳥占使について
・高橋宏幸著『ギリシア神話を学ぶ人のために』、世界思想社、2006
を参考にしました。この本は一貫して「鳥」という観点でギリシア神話の在り方に迫っています。
 神話画などでは神々は人間とそっくりな見た目ですが、翼を持った姿で描かれることが多いです。つまり神々と人間の違いを翼で描写しているといえます。それほど重要な「翼」というもの、それを唯一鳥だけが持っていること……考えさせられますね。

 そして翼を手に入れた人間イカロスの墜落の神話はあまりにも有名です。私はイカロスの飛翔と墜落の神話はまさに「死すべき人間という身分をわきまえよう」という「神話的態度」を表していると感じ個人的に大好きなのです。

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