『イーリアス』第六巻をひとつひとつ読む:後編

『イーリアス』

 

 今回は前回に引き続き第六巻を読んでいきます。
 第六巻は戦場から一時離脱したトロイア軍の総大将ヘクトールにフォーカスした話になっています。

 前回までのあらすじ
 ギリシア軍は猛攻を続け、トロイア軍を追い詰めていた。劣勢となったトロイア軍を見て、占い師ヘレノスはヘクトールに城に戻り、女性たちにアテナに祈るよう指示するように助言した。ヘクトールはそれを承諾し、一旦戦場を後にした。

ヘクトールの帰還

母ヘカベーに会う

 ヘクトールは戦場から戻り、まずはスカイア門という砦に辿り着きます。

 帰ってきたヘクトールに押し寄せる女性たち、彼女らはみなヘクトールに自分の愛しい夫、兄弟、父がどうなったか尋ねました。ヘクトールは彼女らに神に祈るよう言うしかありません。彼女らの内もう幾人かは夫たちを失っていたからです。

 門から進み、プリアモス王やその家族たちが住まう城と屋敷に到着します。するとヘクトールのもとにトロイア王妃でありヘクトールの母ヘカベーが、ラーオディケーというヘクトールの妹を連れて駆け寄ってきました。

 ヘカベーはヘクトールの帰還に驚き、戦場から抜け出してきたことを案じます。今すぐにでもゼウスに祈り戦うように提言しますが、ヘクトールは、血に塗れた自分は神へ祈れないと前置きし、ヘレノスからの助言を彼女に伝えます。

 そしてヘクトール自身はというとパリスを探してくると言います。
 ヘクトールは自分が戦争の原因でありながら戦場に姿を見せないパリスを厳しく非難し、「彼が冥途に行くのを見られたならどれほどよいか」とまで言っています。

 祈りをささげるのはヘクトールではなく、自分たち女性であり、アテナ神殿に行くべきである。そのことをヘクトールから聞いたヘカベーたちは早速動き出します。

 ヘカベーは家来にトロイア中から年功を積んだ女性たちを集めるよう指示し、自身は納戸へ行ってアテナ神像の膝にかけるにふさわしい美しい衣を見つけ出します。
 奇しくもそこにある美しい布たちは、パリスがヘレネーをさらいにいく航海の途中で、シドーンという町から貰って来たものでした。その中でもとりわけ美しい布を選び、一行はアテナ神殿へ到着します。

 トロイアでアテナ神殿の女祭司を務めていたのはテアーノーという女性でした。彼女はトロイアの元老の一人であるアンテーノールの妻です。
 彼女を中心に、トロイア女性たちはアテナに祈りを捧げます。布をかけてあげて、生贄も約束しました。

 しかし、ご存じのとおりそもそもアテナはギリシア軍に味方しています。このように祈りを捧げたところで聞き入れる気はありません
「こう祈っていったが、パラス・アテーネーは、そっぽを向いておいでだった(引用)」とあります。残念。

パリスとヘレネーに会う

 ヘクトールは次にパリスのいる屋敷へと足を運びます。この屋敷もヘクトールたちの屋敷と近いところに作られていました。

 ヘクトールが入っていくと、そこには甲冑などの武具や弓を手入れしているパリスを見つけます。ヘレネーもいつも通りに家来に仕事を頼むなどしていました。

 ヘクトールは、パリスが武具を磨いて敵への怒りを抱いていながらも、それを戦場で発揮しないで屋敷に留まっていることを非難します。あるいは、トロイアの他の戦士たちに嫌気がさして奥の間に引っ込んでいるように思われて、非難しました。

 それに対するパリスの言い分はこうです。

パリス
・別に恨みから引きこもっているわけではない。むしろ胸の痛みをかみしめているのだ。
・ヘレネーが私を戦争に行くようになだめてくれたので、行こうと思っていた。
・私自身も戦争に行った方が良いと思う。
・今武具を身に付けるのでもう少し待っててください。あるいは先に行っていてください。

 翻訳の雰囲気もあるかもしれませんが、やはりパリスには主体性が感じられません。妻のヘレネーに言われたから、やっぱり戦争に行った方が良い気がしてきた、のようなニュアンスを感じざるを得ません。

 このパリスの言い分をヘクトールは無視。ヘクトールはサルペードーンの時もそうですが、無視をしがちです。

 そこで今度はその場にいるヘレネーが話します。

ヘレネー
・私は禍いをもたらす女です、生まれたその日に死んでしまえばよかったのに。
・それとも神々が全て決めたことならば、せめてもっと立派な武士の妻になりたかった
・でもパリスときたら、今もこの先もしっかりした心意気もない。その報いをいつか受けることになるでしょう。
・ヘクトールお義兄様、部屋の奥へ入ってとりあえず席に座ってください。

 ヘレネーからもこのように言われているパリス。トロイア側の大勇士ヘクトールの弟とは思えないほどの格差です。

 とりあえず座るように促されたヘクトールですが、それを断ります。ヘクトールは戦場に戻らないといけないし、まだ行きたい場所もあったのでゆっくりなどしていられないのです。
 ヘクトールはそう告げると足早に次の目的地へ向かいました。

ヘクトールと彼の愛しい妻子

自宅へ戻るも……

 ヘクトールが急いで向かったのは自宅でした。次いつ町に戻って来れるかもわからないですし、そもそもまた戻れるのかも定かではありません。
 ヘクトールは戻れた今だからこそ、愛しい妻子に会おうと自宅を訪ねたのでした。

 しかし、そこに妻子の姿はありません。実は彼女らは戦場が見える砦の門に上っていたのでした。
 そのことを知らないヘクトールは近くにいた家来に、彼女らの所在を尋ねます。どこか別の兄弟の嫁達と共にいるのか、あるいはアテナ神殿へ他の老女とともに向かったのか、いろいろ考えます。

 家来は
「ギリシア軍が優勢と聞いて、奥さんは砦に大急ぎで狂った様子で向かいました。息子さんを抱いた乳母も一緒です」
とヘクトールに教えます。

 ヘクトールは自宅を飛び出し、妻子のいる砦の門へ向かいます。

妻アンドロマケー

 戻ってくる際に通ってきたトロイア市内の大通りを、今度は逆方向へ走っていきます。そうしてスカイア門に辿り着くと、ちょうどそこへ妻のアンドロマケーが彼を見つけて駆け寄ってきました。

 ちょうど息子のスカマンドリオスも乳母に抱かれて一緒でした。スカマンドリオスは、トロイアの人々からは、ヘクトールの名誉に由来してアステュアナクス(都の君)とも呼ばれていました。まだ生まれたばかりで小さい赤子です。

 アンドロマケーは夫ヘクトールの腕にしがみついて彼の現時点での無事と、しかしまた戦場に戻っていくことを嘆きます。

アンドロマケー
・(ヘクトールの)勇敢さが破滅の原因になるのだわ。
・赤子だの不幸な私のことなど可哀想とも思わないのね。もうすぐ私は、ギリシア軍に貴方を殺されて後家になるだろうに。
・あなたを失うくらいなら私も死ぬのがいい。あなたの死後、何の慰めも私にはないだろうから。
・私には父も母もいないもの。

 こう言ってからアンドロマケーは、最後に言及した「両親を失っていること」について語り始めます。

 アンドロマケーの父エーエティオーンはテーバイの領主でした。しかし、あのアキレウスがテーバイを侵略した時に殺されてしまいました。
 父親だけではありません。七人ほどいた兄弟たちも皆アキレウスに殺されています。

 母親というと殺されずに済み、一度は身代金などのやり取りでトロイアの方へ連れてこられるなどしていましたが、結局彼女はアルテミス女神に殺されてしまったのです。

 ゆえに天涯孤独となったアンドロマケーには、夫ヘクトールと息子しかいません。

 アンドロマケーはヘクトールに戦場に行かずにここに留まるよう願います。他の兵士たちも市内に戻ってきやすい場所へ配置するように頼みます。
 城壁からずっと見ていた彼女には、両アイアースやディオメーデース、イードメネウス、アガメムノーン・メネラーオス兄弟の猛攻とトロイア軍の劣勢がすっかりわかっていたのです。

ヘクトールの哀しい予測

 しかし当然、ヘクトールはそれを了承しません。
 彼はトロイア軍の総大将として誇りがあるからです。戦から逃げ隠れしているように思われることを彼の心は許しません。
 いつも勇敢に振舞い、軍の先頭に立って戦い、誉を得る。これが彼の信念です。

 ヘクトールだって、「いつの日かトロイアは滅びるだろうこと」を心得ていました。彼はそのような覚悟をしていながらもなお、トロイア戦士として戦い続けることを誓っています。

 彼は家族、王族たちの滅亡を案じ哀れみますが、それでも残されるアンドロマケー以上に気がかりなことはありません。
 やはり妻を残すことがヘクトールには最も苦しいことでした。

 ヘクトールの死後、アンドロマケーは奴隷としてギリシア軍に隷従する日々を送ることになるだろうし、また「あのヘクトールの妻だった女だ」と後ろ指を指されることもあるでしょう。それをヘクトールは予測します。
 「そしてそのころには、お前の悲鳴を聞いたり、お前が引きずられるのを見ずに済むよう、死んで土の下にいたいものだ」と述べます。

 ヘクトールは驕り高ぶることなく、しっかりと現実を把握していますね。それでいて戦い抜くことを決めている勇敢な男です。しかしながら、その予測を嘆く妻に語るのはあまりにも酷すぎます……。

息子スカマンドリオス

 ヘクトールはふと、乳母が抱いている愛しい息子、スカマンドリオスに目を向けます。そして彼に触れようと手を伸ばします。

 しかし、スカマンドリオスちゃんは、完全武装しているパパの金属や垂れるような形状の飾りにびっくりしてしまい、手を避けて乳母の方へ身を反らしてしまいました。

 この光景に思わず笑ってしまったヘクトールとアンドロマケー。
 ヘクトールはすぐに兜を脱ぐと、スカマンドリオスを抱っこして口づけ、ゆすぶってあやします。

 そうして天に掲げて
「ゼウス様、神様方。この子が私と同様の名誉を得るよう、あるいは父親よりも立派だと言われるように、また獲物をたくさん持ち帰り母を喜ばせますように」
と祈るのです。

 このシーンすごく感動します。ヘクトールはもう自分の最期すら悟っていて、次世代を担う愛しい息子への希望を胸に抱えているように思えます。
 パパの武具にびっくりしちゃう赤子と妻との和やかで、それでもこの幸せの終わりが確実に意識されているシーンです。

それぞれの仕事へ

 抱き上げた息子をアンドロマケーの腕の中へ戻します。アンドロマケーは涙ぐみながらも笑っています。

 ヘクトールはまた、「人間というのはいつかは死ぬものである」ということを繰り返し、戦場に戻ることにします。だからアンドロマケーにもいつも通りの機織りの仕事に勤しむように伝えます。

 戦争は男の仕事。男なら向かって行かなければならないのです。ヘクトールは兜をかぶり直し、アンドロマケーも館へ戻っていきました。

 さて一方、その頃パリスもようやく戦場に赴く準備ができ、早速砦から向かって行く最中でした。そこで戦場に戻っていくヘクトールと再会します。
 二人は戦いへの心意気を確かめ合い、出陣します。

まとめ:男の戦い

 こんなところで第六巻は締めくくられています。

 ところでアンドロマケーという名前は直訳すると、男の(アンドロ)戦い(マケー)です。どうしてこういう名前なのか、考えだすと止まらないです。

 戦争は男のものであり、いつも女たちは悲しみと共に取り残されるだけ。夫を引き留められずに館へ帰る彼女の無力感を感じます。誉輝くヘクトールは彼女の誇りですが、同時に悲しみの原因でもあります。

 ヘレネーとパリス夫妻はどうでしょう。パリスは男の戦いに消極的でヘレネーにとってそれは恥です。対照的です。

・ヘクトールには妻アンドロマケーと息子スカマンドリオスがいる。
・ヘクトールは二人を残して再び戦場に向かった。
・パリスもヘクトールと共に戦場へ戻った。

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

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